新たな信用制度について
信用とは一体何か、と考えると、経済学的には債務の返済能力ということになり、そのために債務残高の逆数としてしか信用は定義し得ないことになる。現状、債務というのは現在支払いができないから金を借りてそれを返す、ということであり、そうなると支払いができない、という時点でもはや信用という言葉からは外れるような気がして、定義的にどうも整合性がないように感じる。
そこでどうすべきかを考えると、いわゆる契約と呼ばれるものをもっと信用に近づけてみたらどうだろうか。現状、契約とは、仕事があり、それをいつまでにこなす、という約束で、それをこなしたら支払い(もちろん時には前払いのようなこともあると思うが)がなされるというのが一般的なあり方ではないかと理解している。もちろんやらなければならない仕事が山ほどある高度成長の時代などはそのようなやり方は有効だったのかもしれない。しかしながら、安定成長の時代に入ると、仕事をいかに作り出すかということの方が重要になり、つまり、資金需要よりも実際にやるべき(利潤の出る)仕事の需要の方が多い(つまり利益の出る仕事が少なくなっている)状態だと言え、だから誰も借金をしてまで仕事をしたいとは思わず、お金をくれる仕事しかしたがらないようになる、というのが低成長、低金利の時代の意味するところではないかと考えられる。
それを、リスクという名の借金を背負わせることで打開しようというのが現在の資本主義だと言えそうだが、そんな時代にいかに資本主義を作用させるか、つまりお金を動かすことで仕事を作り出すようにできるか、ということで、契約の個人化のようなものが必要なのではないか、と感じる。典型的に言えば、クラウドファンディングのようなもので、つまり、個々人がやりたいことがあり、それを示すことでお金がつく、ということである。とは言っても、やはりまだまだ資本の力、利潤の力というのは非常に大きいので、自分にとってメリットが出るものしか金を出す、ということにしか当然ならない。そうなると、多くを巻き込んで話題となって社会的な動きを作り出す、と言ったことが求められ、仕事がやはり個人から離れていってしまう。
そこで、信用の出番となる。信用というものを、債務ではなく、人のやりたいことの実現に対する支援、個々人の自己の実現のための動機づけというふうに変えて行くことで、信用の残高は債務とは連動せずに、限りなく増してゆくことになるのではないか。具体的には、面白いことをやっているという人に対して先日付、例えば6ヶ月満期の手形を発行し、6ヶ月後になんらかの具体的成果、進捗の報告とともにそれを支払うというような契約を結び、その残高を発行者の信用であるとするような社会はどうだろうか。雇用契約というよりも、常に半年のモラトリアムがある長期自由契約のようなものになれば、例えばアーティストのような活動は非常にやりやすくなり、ある程度長期的な計画を立てながら自分の仕事、自分の人生を歩んでゆくことができるようになりそうだ。もちろん、それは排他的な契約である必要はなく、つまり一人が何人ものスポンサーと契約することもできるし、スポンサーも何人にどれだけ出しても良いことになる。
この信用は、別に借金でもなんでもないので、出し手も受け手も公表することになんの問題もないはずで、だからその残高は可視化され、経済学的な統計に使うこともできれば、出し手の信用力、受け手の評価ということを示すものにもできるのではないだろうか。出し手は信用力を高めることで、自分が面白いと思うことをどんどん支援して、世の中を自分の面白いと思う方向に動かすことができる一方で、受け手は自分が面白い楽しいと思うことを、人の顔色を伺うことなく、わかってもらえる人にわかってもらえれば、なんの負い目もなく自信を持ってやって行けることになる。そして、6ヶ月後に入ってくるお金が計算できる生き方というのは非常に安定する。その意味で、出し手側も6ヶ月後の行動をある程度相互信用の元で予測の範囲内に収めることで、社会的治安とまでは言わないまでも、自分の周囲の環境の向上にも繋げることができるのかもしれない。
そして、借金ではないので、個々人の自発性を重視した政策運用にも負担なく応用できるのではないか。債務を信用とした時の信用政策、つまり金融政策は、金で人生・命そのものをがんじがらめにした上で行動を管理するという非常にいやらしいものになるが、やりたいことの支援であれば、皆と同じような管理された無個性なやり方ではなかなかお金は集めにくく、そんなやり方をしていれば普通のお金をくれるような仕事しかできなくなってしまう。多くの人がそのような生き方をしている社会は非常に無味乾燥でつまらないものだと、私は感じている。それならば、それぞれの人が自由に自分のやりたいことを追求している社会の方が遥かに魅力的に感じる。そして、自分のやりたいことを追求するよう誘導(?)するのに、果たして中央集権的なオリエンテーションは有効なのか。それならば、出し手の方がこんな人材募集というのを常に出しておき、自由市場でのマッチングが図られた方が効果的ではないだろうか。
成果としては、もちろん目立つ行動でどんどん何かを変えてゆくということも必要なのだろうし、設定した目標をクリアしてゆくというのは重要なのだろう。しかし、官僚的社会の現実を見ても明らかなように、世の中やりたいと言ってそれがただ実現されるものではない。常になんらかの問題に突き当たり、それと格闘する、ということの繰り返しになることがほとんどであろう。だから、長期的な信用関係では、具体的に現在なんの問題とどのように格闘しているのか、という報告が上がる、現状報告がなされる、という程度の成果が現実的に期待できるものだろうし、その程度のハードルでないと、皆が目立ちたがり、競争となって、結局競争の勝者が総取りし、そして自分の言いなりに動くものにまた金を出すだけ、という現状と何も変わらないことになってゆくのではないか。問題の可視化によって解決する、というのは仕事の基本的な在り方だと言え、それはそれぞれの仕事の相互干渉の範囲を減らし、自由度を高めてゆくことにもなる。そして、信用の出し手にとっても、記録に残らない瞬間的な成果よりも、後からきちんと継続的に検証できる成果の方が、少なくとも長期的にはまさに信用の名に値するのではないかと考えられる。さらに言えば、目立つ人間だけが信用供与、受領の対象となる、というあり方では、信用の残高はなかなか積み上がってはゆかないだろう。
政策的には例えば信用残高に応じた減税措置のような政策が有効になるかもしれないし、そうなると、信用残高を指標にした政策運営というものが求められるのかもしれない。もっとも、個人的には、政策のようなものはもはや不要で、直接民主制に移行してやりたい人のマッチングを市場に任せる、という方が遥かに有効なのでは、と感じる。人の行動を気にしているよりも、自分のやりたいことをやっている方が健全ではあろうと思うからだ。ただ、そこから生じる社会問題的なものはやはり追いかける必要は出てくるのかもしれず、そのための自発的な観察のようなものはある程度必要なのかもしれない。
理論的に言えば、これは信用理論の大転換となる。経済学的な信用制度は、個人単位で見ると現状では、ほぼ銀行の融資残高と同義であるといえる。もちろん、法人の方が範囲が広いので、そこには社債などの要素が大きく、そもそも融資にしても企業向け融資がほとんどを占め、信用という非常に人間的な言葉が、企業の返済能力と同義になっているのだと言えそうだ。そのような制度的金融・信用制度自体、信用というものが本来意味するであろう人間間のもの、相互信用について完全に漏らしているのだといえる。それは、かなり日本独特であるといえる制度的な相互信用の仕組である企業間の手形決済というものが次第に減っているということからも明らかであろう。
現在の信用理論では、信用創造は預金に対してどれだけ融資を膨らませられるかということによって成り立つことになっている。つまり、銀行の預金者に対する借金をベースに、そこからどれだけ他の人への貸付を増やせるか、という、銀行の信用能力が信用理論の基礎となっているといえるのだ。そして、それは中央銀行へ積み立ててある資金があればいざという時に救済を受けることができる、ということで成り立つ、非常に中央集権的な仕組となる。これでは、信用を作ることができるのは銀行だけで、そしてさらにそれは中央銀行の信用の元でしか成り立たない、という非常に偏った社会観に基づいて理論・制度設計がなされていることになる。この制度においては、貯蓄というのは、銀行への預金を通じて貸し出しが行われて初めて信用に変わる、ということになり、そして銀行が利潤を求める以上、信用というものは利益に対する信用にならざるを得なくなる。貨幣が本来的に交換手段で、そこに対する付加価値への期待から信用が生まれるのだとすれば、付加価値自体を数値化して利潤として目的化するよりも、信用残高の方を数値化・可視化してそこから数値化できないような多様な付加価値が生まれる、という形にした方が良いのではないか。目的を利潤という無味乾燥なものにまとめてしまうと、人との関係性はどうしても利潤をめぐっての取り合いということになってしまう。利潤というのは、それをつかって自分の目標を追求する中間目標に過ぎず、それを目的化してそれに向けて競争させる社会というのは、設計して作る世界としてはあまりに出来が悪いのではないかと感じる。利潤が自己目的実現のための中間目標であるとすれば、相互信用は他者からの信用でありそれ自体十分に目的になりうる。つまり、もし仮に目的というのを数値化し、一般化する必要があるのならば、利潤よりも相互信用の方が遥かに有意義であると言えそうだ。そのためにも、個人間の相互信用を主として、仮にそこが返せなくなった時に銀行からの融資を、そしてそれが中央銀行の保証を受ける、ということにした方が、信用の大きさも安定性も遥かに増すことになるだろう。
信用が人間間に成り立つものである以上、それは誰もが作り出すことができて当然なのであろう。そして相互の信用というのは、それ自体人生において大きな目的となりうるものだといえる。社会が何かしら目的を設定する必要があるのならば、それは広く合意を得られるものである必要がある。功利主義的には利益を目標とするのは正当化されるのだろうが、それはあくまでもそれぞれに違いがあるミクロな人間像を一般化して抽出した概念的な目的にしかならないわけで、そして誰もがその一般化された人間像に当てはまるわけではない。社会的功利主義として、社会の中で人と出会い、その信用を得ることで、自らの効用が上がる可能性が高まる、という程度の一般化ならば、少なくとも個別のミクロな人間像だけに焦点を当てた現状の功利主義よりもかなり受けは広がるのではないだろうか。
とにかく、このように、信用を債務という後ろ向きのものからやりたいことという前向きのことに変えることで社会も経済も大きく変わってゆくのではないだろうか。間接民主制・資本主義という20世紀型の社会・経済像から、直接民主制・新信用制度の世界へ舵を取るべき時ではないか。
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