【世界の中の日本】攘夷の動き
さて、安政5-6年(1858-59)にかけて安政の五カ国条約が相次いで締結され、安政7年には万延元年遣米使節を派遣してこの批准作業を行った。そしてその年、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、攘夷の動きが活発化していた。その攘夷の動きを順に見てゆきたい。
ムラヴィヨフ
まず、安政6年(1859)、ロシア東シベリア提督のニコライ・ムラヴィヨフが7隻の艦隊を率いて江戸湾に現われ、国境策定交渉を求めた。このムラヴィヨフは、清に対して愛琿条約を押しつけ、アムール川北岸の領有を認めさせた人物であった。当時、ロシアはニコライ1世とプロシアからの后アレクサンドラ・フョードロヴナとの間に生まれたアレクサンドル2世の治世となっており、母親の影響か、拡張主義的な政策に走り出していた。その尖兵としてのムラヴィヨフであり、愛琿条約の余勢を駆って日本までやってきて、樺太の領有を求めたのだった。そして、おそらくであるがその領土交渉の翌日に突然襲われ、水兵二人が死亡した。その3ヶ月後にはフランス副領事の清国人の従僕が殺害されるということがあった。この二つの事件に関連性があるのかはわからないが、もしかしたら、その清国人従僕が愛琿条約についての話を何らかの形で日本側にもたらすということがあり、それによってムラヴィヨフの部下が襲われることに至ったのではないか。清国人がアロー戦争を仕掛けている最中のフランス人に好きこのんで仕えるとは思えず、日本側に清の実情を伝えようとして、フランス領事館に潜り込んだ可能性もある。そして結局それが発覚して、殺されてしまったのかも知れない。その愛琿条約は、翌年になって、ロシアがアロー戦争の仲介をしたということで、アロー戦争の講和条約である北京条約の中で、更にロシア側の主張を強めて、愛琿助役では雑居地とされたウスリー川東岸の現在沿海州に当たる部分もロシア領とされた。漢文版では雑居地とあるが、ロシア語版ではその表現は見当たらない。これは、日米和親条約の時のやり方をロシアが見習った可能性もある。
アロー戦争の影響
明けて安政7年(1860)、イギリス公使オールコック付きの通訳が殺害された。犯人は見つからなかったが、殺されたのも日本人であったためか、特に問題とはならなかった。オールコックは上の事件で、ムラヴィヨフに殺人事件に関して賠償金を請求するよう示唆したとされるが、それまでのイギリスの方針や、この通訳殺人事件への対応を含めたその後のオールコックの行動を考えても、そのようなことをするとは思えない。むしろ、賠償請求しようとしたムラヴィヨフをオールコックが引き留めた、という事ではないかと考えられる。自国民の裁判は自国民で、そしてその損害について国、つまり幕府はなんの責任も持たない、という外交原則を持っていたイギリスの公使の立場から、対抗するロシアの賠償請求を後押しするとは思えない。
一方で、この通訳殺害事件の翌日にはフランス公使館が焼失している。これも、前年の清国人従僕に関わるものではないかと考えられる。イギリス、フランス、ロシアは北京条約締結に向けてつばぜり合いを交わしているところであり、おそらくであるが、イギリスの比較的フラットな条約案に対して、フランスがロシアの力を借りて強硬な条約案を通そうとしている、というような状況にあったのではないかと考えられる。その影響が日本にも及んできたのだろう。
殺人賠償金の始まり
そこにオランダが更にたたみかけることになる。その翌月のことになるが、オランダ商船の二人が横浜の街路上で惨殺され、犯人が捕まらないまま、オランダから賠償金請求がなされ、幕府がオランダに1700両を支払っている。どこの藩の所属なのかすらも明かでないまま、幕府が殺人事件に対して損害賠償を行うなどと言う事がまかり通ったら、罪人を連れてきてはそこで殺害されるように仕向け、賠償をせしめるという死刑執行ビジネスが成り立ってしまい、まともな関係は成り立たない。それは、無理な開国によっておきた当然の帰結であり、それを裏で主導していたオランダがこのような賠償金ビジネスを始めたのだ、という事実は銘記されるべきであろう。
北京条約の余波
万延元年になって9月17日にフランス公使の従僕が武士に切りつけられる事件が発生したという。これが和暦ならば、北京条約が英仏との間で調印され、ロシアとの間で交渉中におきたことになる。それを考えると、北京条約へのロシアの参入は、積極的仲介と言うよりも、フランスが清・満州の解体を目的にロシアを引き入れた、と考える方が自然なのだろう。そして、その解体に対しての不満が、従僕、イタリア人だとされるが、フランスの影響圏からの勢力によって統一がなされることで南部は辺境化されているというイタリアの状態を反映したか、いずれにしてもフランス人とイタリア人の区別など日本人にはつかない中で、とにかく標的あるいは盾として攻撃対象になったと言うことになるのかも知れない。
オールコックの姿勢
更に10月には、狩猟帰りのイギリス人マイケル・モースが従僕を脅した日本人役人に向けて発砲して捕縛され、それに対してモースは領事裁判所で罰金1000ドルと国外追放の刑を受けた。オールコックがいかにフェアに条約を守ろうとしたかがよくわかる事例である。しかし、オールコックは後に香港でモースからこの件について損害賠償の訴訟を起こされ、モースに倍額の2000ドルを支払うことになった。イギリスと言っても一枚岩ではなく、そしてそれはおそらく本国の政治情勢と連動していた。それはまた後ほど見る。
藩士の罪への弔慰金
12月には、アメリカ総領事のハリスの通訳であるヒュースケンが薩摩藩士に襲われ、翌日死亡した。幕府は1万ドルの弔慰金を払って落着させたとのことだが、これによって諸藩による攘夷の賠償を幕府が行うという前例ができることとなった。もっとも、手続き上ではあろうが、薩摩藩士ながら「浪士組」の所属とされ、幕府の管轄であったということにしたのであろうか。このあたり、おそらく西欧、特に(絶対)王政の歴史の長いフランスやイギリスからは理解しがたいのだろうが、諸藩は幕府に対して年貢を納めているわけではなく、あるにしても役務を果たすという緩やかな関係性であり、それは決して主従関係と言えるものではない。もちろん領土の権利自体は幕府によって保証されているので、逆らうというのは現実的ではないとはいえ、幕府側とすれば、大名、しかも外様のやったことまで責任をとらされるのは余りに筋違いであるといえる。神聖ローマ帝国の臣民がフランス人を殺した時に、皇帝に対して賠償請求できるのか、という事を考えれば、その異様さは想像できよう。それはもちろん、共和制であるアメリカとも違う。国民が直接選び、税を納めることで、国民が国と一体化しているような国ならば、国民の罪は国の罪、という理屈もあるのかもしれないが、陪臣と幕府との間には全くと言ってよいほど関わりは無い。どんな法理論を持っても、そこに賠償を発生されるのは難しいのではないかと考えられる。
いずれにしても、まだ開いていない江戸にアメリカ公使館があったとは思えず、おそらくヒュースケンの側に何らかの落ち度があったのではないかと思われるが、それはわからない。社会背景としても、条約の批准を前に万延小判が発行され、インフレが起こって世が騒がしくなっていた。そんな中で、自分の立場も考えず、ふらふらと一人で江戸の町を歩き回っていたとしたら、何かが起こっても不思議ではない状態であったと言える。そして条約の交渉内容を知っているヒュースケンは、締結後にはもはや不要となったので、アメリカサイドから切り捨てられた可能性もある。その死すらも無駄にしないアメリカやオランダの商魂たくましさと言うべきか。
謎の多い東漸寺事件
翌文久元年(1861)江戸のイギリス領事館があったという東漸寺が襲撃される、第一次東漸寺事件が起きた。しかしながら、この話はどうも眉唾のように感じる。オールコックが長崎から陸路を用いて江戸に向かい、そこでかなり日本の実態に触れたのは事実なのだと思う。そして、開国によって経済が混乱しているのも目の当たりにしたのだろう。しかしながら、攘夷派がもしオールコックの陸路移動を不快に感じたのならば、領事館に戻って守りが堅くなった後よりも、旅行中に襲った方が確実だし効果も大きい。そして犯人は水戸脱藩浪士ら14名だとされるが、人名はともかく、その詳細はほとんどわかっていない。それを考えると、これは、おそらくではあるが、被害に遭ったという書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンの狂言なのではないかと疑われる。オールコックはこの事件の前に、先に出たマイケル・モース事件の処理のために香港に行っている。モースはそこで訴訟を起こしたという事で、オールコックについて、特にその外交手法について批判を広めていたのではないかと考えられる。そして裁判はオールコックの敗訴となったと言うことで、香港において、その批判はかなり受け入れられていたのではないかと考えら得るのだ。そんな香港方面からやってきたのがオリファントとモリソンなのだ。ジョージ・モリソンはポルトガル領マカオ生まれで、長崎領事となるために活発に活動したが、開港に間に合わずに最初の領事にはなれなかった人物であった。モリソンというのは、蛮社の獄につながったモリソン号事件の名に通じることから、非常に使い勝手の良い姓であり、その実存を疑う理由はある。一方オランダの影響が強い南アフリカのケープ植民地で育ったオリファントは、当時外務大臣のジョン・ラッセルに直訴する形で日本の書記官となっている。当時イギリスは第二次パーマストン内閣であったが、その外務大臣となったラッセルとパーマストンはライバル関係であった。パーマストンは砲艦外交の権化のようなイメージでとらわれているが、実際にはその外交手法は非常にオーソドックスで、オールコックと近いような国際常識を持った人物であった。一方のラッセルは、権力闘争のために外交であろうが経済であろうが何でも道具にすることを厭わない、いわゆるリアリスト系の人物であり、パーマストン外交のイメージはむしろ外務大臣であったラッセルによって形成されたと考えるべきであろう。そんなラッセル肝煎で日本に送られたオリファントは、オールコック外交を転換させ、力での日本支配の方向を探っていたと考えられる。オランダ語のできたオリファントは、オランダ、そしてアメリカと協調外交を目指すことで、オールコック的な融和的外交を排除し、方向転換しようとしていたと考えられる。そこで、オールコックが江戸に戻った翌日に浪士団に形ばかりの討ち入りをさせ、大きく騒ぎ立てたのだと考えられる。前回見たように、幕閣の中にもオランダと通じて積極的に開港しようという勢力はある程度の力を持っており、オランダ経由で偽装の襲撃を行うことは不可能なことではなかったと思われる。そこで、この第一次東漸寺事件に至ったのだと言えそう。この問題処理のためにイギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いが定められたと言うが、それは基本的にはその前のロシア船対馬上陸事件の協力に対する返礼であるといえ、事件に対する賠償という形にしたのは、それがまた何らかの形で最恵国待遇の前例となることを避けるためだったのではないだろうか。オールコックは結局この事件をきっかけにしてオリファントとモリソンを帰国させており、領事館内クーデターは失敗に終わったのだとみてよさそう。
繰り返される謎の事件
続いてちょうど1年後の翌文久2年にも東漸寺で事件が発生した。これは、松本藩士の伊藤軍兵衛がイギリス代理公使ジョン・ニールを殺害しようとしたものであり、犯人が自刃することで終わった。上の第一次東漸寺事件でもそうだが、基本的に開市前の江戸に公使館を置くとは考えにくく、実際オールコックは第一次東漸寺事件の後に横浜に公使館を移しているという。それが、オールコックが帰国している間に代理公使を称してジョン・ニールという人物がまた東漸寺に滞在し、そこに警護を付けさせたことから起きた問題であると思われる。しかも、日本側からの襲撃というのは考えにくく、むしろ前回と同じく狂言で、日本側の護衛兵を突然襲って事件を作り出そうとしたものではないかと疑われる。オールコックの帰国も含めて、外務大臣ジョン・ラッセルの肝煎人事であると考えられ、何とかして事件を作り出そうと企んだ結果であろう。
生麦事件
その賠償支払い交渉をしている間に生麦事件が発生した。薩摩藩の大名行列の前を騎馬で横切り、そのまま行列に逆行して進むなどと言う非常識という言葉では片付けられないこの事件ほど挑発的な、不可解な事件はなく、代理公使であるニールが悪意を持って仕組んだという構図以外に考えようがない。日本側では、この事件を前にしてオールコックとの会見に向かう途中に坂下門外の変で負傷しながらも面会を果たしその信頼を得ていた安藤信正をはじめとして、4人の老中が次々退任しており、その代わりに入った3人はまだ就任から半年も経っていなかった。一番長かった松平信義は、そもそも老中を出すような家柄ではない上に分家からの養子であり、幕政に関与すること自体場違いな人物であった。そんな状態で、幕府の意思決定機能が完全に麻痺しているのを見計らってのこの事件の発生となったのだ。そして結局それは薩英戦争に至ることになる。そこには、幕府側にも目障りな薩摩を何とかしたいという意図が働いていなかったとは言えない。幕府という言い方もおかしいが、当時の老中の中にはもはや人物はいなかった。
公使館焼き討ち事件
文久2年12月には、オールコックが幕府に依頼していた公使館の建物が焼き討ちに遭った。これはおそらく共同公使館のようなもので、そこに各国公使がひとまとまりとなって江戸との交渉を行うという、非常に開明的な案であったと言える。幕府もおそらく安藤信正が主導する形で、それならば、という事で認めたものであろう。そう考えると、安藤が狙われた坂下門外の変自体、その計画が原因だった可能性がある。それを、完成間近になって、長州藩士がよってたかって焼き払ったことになる。薩長などと並び称されるが、その立場の違いは明らかなのであろう。これを処罰できなかった幕府は、もはやこの時点で救いようのない位に腐りきっていたのだと言える。
フランスへも弔慰金支払い
翌文久3年、薩英戦争終了後に、今度はフランス陸軍のアフリカ猟歩兵大隊所属アンリ・カミュ少尉が井土ヶ谷で斬殺された。3人で行動していながら、カミュ少尉だけが殺されたという。アフリカ猟歩兵大隊所属と言うことで、アラブ系、あるいはベルベル系の義勇兵であった可能性があり、これも、外国人を人身御供にしてフランスも攘夷の被害国であるということを主張するための偽装襲撃であった可能性がある。結局犯人は捕まらず、素性すらも明かでないまま、フランスに使節を派遣したあげくに遺族に35000ドルを支払うという、もはや原則も何もなく、なし崩し的に事件が起きたらただ謝って金を払う、と言うことになってしまった。
英仏の条約に対する態度の違い
薩英戦争は別に見るとして、攘夷事件を引き続き見ると、元治元年(1864)には、イギリス人仕官2名が斬殺され、これに関しては犯人を4人捕まえ、斬首によって解決し、賠償金は発生しなかった。この時にはイギリス公使にはオールコックが復帰、そして老中にも骨のある人物が入っており、このまっとうな裁きとなったと言える。
慶応2年(1866)には鳶の小亀事件が起きる。酒に酔った2人のフランス水兵が遊郭に入り乱暴を働いたのを、力士の鹿毛山長吉が取り押さえ、とび職の亀吉が鳶口で殴打し1人を即死させた事件だ。日本側では殺人犯の亀吉を処刑し、長吉は追放になっている。一方で、フランスの方はきちんとこの水兵の行動を裁いたのだろうか。結局、不平等とは条文の内容と言うよりも、実際の行動なのだろう。
神戸事件・堺事件
この後もいくつか攘夷事件はあるが、国際的に重要な意味を持つものはなさそうなので、幕末はここまでとし、維新が動き出してからの事件をもう一つ二つ挙げておきたい。まずは慶応4年(1868)の神戸事件だ。戊辰戦争の最中に、佐幕藩に対応するために西国街道を進んでいた備前藩の一部隊の前方をフランス水兵が横切ろうとしたので備前藩士滝善三郎正信が槍で傷を負わせ、それに対してフランス水兵が拳銃を取り出したので銃撃戦になったと言うものだ。当時戦時中であることはわかっているはずで、そのような時にそんな不用意な行動をとれば問題が起きるのは当然であり、それを備前藩側の非とするのは余りに異常。特に、フランスが軍事顧問団を送るほどに幕府と良い関係であったことは知られていたはずで、局外中立を宣言したのは事件後であることを考えれば、行軍の前を横切るなどと言うのは戦闘行為とみなされても不思議ではない。そして、欧米公使に向けて意図して発砲するとは思えず、それについてはパークスの言いがかりである可能性がある。そもそも戊辰戦争の中心的戦場の神戸にそんな時期に外国公使が寄り集まってうごめいている、と言うこと自体が異常なことであり、トラブルを起こすためにいたとしか考えられない。そんな言いがかりに対して、新政府、そして備前藩は滝を見世物のように切腹させて幕引きをした。外国におけるハラキリのイメージはこれで固められたのだと思われる。そんな冒涜は許されることではない。
そんな神戸事件もまださめやらぬ中、局外中立を宣言したはずのフランス海軍コルベット艦が堺港に入り、水兵が上陸して市内徘徊するという事件が発生した。警護の土佐藩兵ともみ合いになり、フランス側に11名の死者が出た。遺体はフランスに返還されたが、あろう事か藩老公の山内容堂が自分から藩士処罰の意向を伝え、それによって下手人の漸刑、賠償金などの一方的且つ高圧的な要求を押しつけられ、11名がまたもやフランス人の目の前で切腹した。内戦のどさくさに紛れてこういうことをする国であるということは忘れてはならないだろう。
結局1週間で10年のペースは全然守れず、今日も積み残しが出てしまった。薩英戦争、下関戦争など、実際に戦端に至ったものと、その帰結を書いて、あと1回で終われると信じよう。
Photo from WIkipedia 薩英戦争
Bombardment of Kagoshima. Source: "Le Monde Illustre", december 5th 1863.
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