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【Lonely Wikipedia】ブレトンウッズ会議

ブレトンウッズ体制が定まったブレトンウッズ会議自体もさっと見ておきたい。

The Bretton Woods Conference, formally known as the United Nations Monetary and Financial Conference, was the gathering of 730 delegates from all 44 Allied nations at the Mount Washington Hotel, situated in Bretton Woods, New Hampshire, United States, to regulate the international monetary and financial order after the conclusion of World War II.
The conference was held from July 1 to 22, 1944. Agreements were signed that, after legislative ratification by member governments, established the International Bank for Reconstruction and Development (IBRD, later part of the World Bank group) and the International Monetary Fund (IMF). This led to what was called the Bretton Woods system for international commercial and financial relations.

公式名にUnited Nationsの名が冠してあるのは、国際連合ではなく、連合国、ということか。日本との開戦2週間後の41年12月22日から翌42年1月14日にかけて開かれた Arcadia Conferenceの最中42年1月1日にDeclaration by United Nationsが出され、それによって国連発足へとつながる。これ自体、非常にトリッキーな宣言で、まずアメリカは連合国(Allies)として第1次世界大戦には参戦しておらず、協力国( "Associated Powers" )として参戦していたので、ルーズベルトが連合国を示す言葉として国連(United Nations)を作り出した。そして、これは国際連盟に参加していなかったアメリカが国際社会で主導権を握るために工夫を凝らしたものであった。まず、最初のBig4と呼ばれる署名国は、United States、United Kingdom、USSR、そしてChinaだった。ここで、USSR、則ちソヴィエト社会主義共和国連邦というのが非常にくせ者で、そこには国名はない。つまり、ロシアのソヴィエトというわけではなく、ソヴィエトの連邦として参加した、ということなのだ。これは、スターリンの1国社会主義的な考えではなく、世界同時革命によって現われるソヴィエトの連邦が参加する、ということで、則ち共産革命が進めばどこまでも広がってゆく可能性がある表現で、だから、そこには署名者がなく、国名だけが列挙されるという、責任者不在の宣言となっているのだ。そもそもアメリカで開かれたこの会議にはアメリカとイギリスしか参加しておらず、USSRとChinaの一体誰が署名したのか、ということがわからないまま動き出したのがUnited Nationsという事になる。それは実は、United StatesとUnited Kingdomについても言える事であり、連合国家、そして連合王国という非常に一般的な名前で署名がなされており、具体的国名は実は全く明らかではない。
その後次々と参加国が増えるが、オリジナルの署名国の中には枢軸国であるドイツやイタリアはもちろん、中立国のスペイン、スウェーデン、スイス、そして占領下にあったフランスやデンマークも名前がない。むしろ名前のある国の特徴を挙げる方がその特性をよく示すことになる。まずはコモンウェルスの中から、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、そして南アフリカと言った(当時の)白人国家。次いで中米カリブ海の九カ国。これの意味するところは、UKに属する白人国家とUSに属する中米カリブ海国家と言うことで、どちらかと言えばスペイン語圏の影響の強い国々、といっても、当時国と言うほどの存在感を持っていたかも疑わしいところもあるように感じるが、それらを大国メキシコを除いてUSの中に位置付けることによって、USの範囲拡大やUKとの対照など、様々な可能性を含めることができる、ふくらし粉のような役割を与えたのだと言える。実際第2次世界大戦後にはアメリカはパナマやニカラグアで国内だと勘違いしているような行動もとっているわけで、それもこんな所に原点があるのかもしれない。後は、ヨーロッパの国々で占領下にある政府を、大英帝国内の独立していない植民地としてのインドと対置させることで、ヨーロッパ諸国の解放とインドの独立を連動させたのだとも言える。全体として、国際的には圧倒的な影響力を持っていた大英帝国に寄生する形で、その影響力をどれだけアメリカ側に持ってこられるか、ということを考えて、アメリカがヨーロッパの混乱の乗じた勢力の拡大の可能性を最大限に広げたものだと言える。
次に参加した国として、メキシコ、フィリピン、エチオピアの三つがある。まずメキシコは、北米大陸においてUSAの最大のライバルとも言える、スペイン語圏の大国であり、その銀貨が太平洋貿易においてずっと基軸通貨の地位を占めていたことからも、アジアへの窓口としては最重要の国だったと言える。それを国際連合の、身内以外では最初の国として導き入れるというのが、アメリカにとっての太平洋戦略を示しているものだと言える。この流れで、五大国を定めるのならば、それは本来的にはメキシコでなければならなかった、と言うことになろう。そしてそのカウンターパートとしてフィリピンと言うことになるのだが、フィリピンについては非常に複雑で、太平洋戦争の鍵を握っていると言ってもよい存在であり、ここで簡単に説明できるようなものではない。エチオピアはアフリカでエチオピア正教会という古いキリスト教の教えを保ち、そして独立国と言うべきか、少なくとも連合国側の植民地ではなく、イタリアと関わりが深い地域であるということが言える。エチオピアとイタリアの関係については、フランスも絡んで複雑なことになっているので、簡単に立ち入ることはできない。ただ、アメリカとすれば、エチオピアの独立から英仏の裏庭であるアフリカのドミノ的独立と言うことも視野に入れたものであろう。
その後、中東と南米からいくつか参加国を得た後、ブレトンウッズ会議が開かれる。ブレトンウッズ会議には、その時点でUNに参加していなかった国もかなり含まれているのだ。
その代表格としてフランスが44年の年末に加盟が認められているのだが、その翌年には、ブレトンウッズ会議には参加していなかった国の中からまず2月にトルコが、次いでこちらはブレトンウッズに参加していたがエジプトが、そして3月には非参加のサウジアラビアが、フランス委任統治領としてのレバノンとシリアとともに加盟する。これは、フランス、そして中東諸国がバルフォア宣言を認めてイスラエルの独立を支持することの交換条件なのではないかと考えられる。もちろん中東諸国はそんなことを納得していないから、後に中東戦争につながることになるのだろう。中東地域でイラクが最初に加盟していることも含め、この宣言自体が中東での火種を作り出したのだと言ってもよさそう。
南米の国も追ってゆくとそれぞれ興味深いのだろうが、それは大きく本題から外れるので、ここまでとしておく。

Background
Multilateral economic cooperation among countries was crucial for the post-war world economies. Countries sought to establish an international monetary and financial system that fostered cooperation and growth among the participating countries. They wanted to avoid the complications faced during the interwar period, due to leaving the gold standard, the great depression, and trade wars that spread the depression globally. There would be a need for an entity that fostered equilibrium in exchange rates and prevented competitive devaluations while ensuring domestic policy autonomy for high employment and real income.

金本位制からの離脱、大恐慌、そしてその恐慌を世界に広げた貿易戦争による複雑さ、というが、そこの解釈が非常にアメリカの立場でなされていると言える。世界、という言葉でくくることができるほど、当時の状況は単純ではなく、まずヨーロッパでは、ケインズの問題意識通りドイツへの過大な賠償請求がドイツを追い込み、戦争に至ったとみて良いのだろう。一方で、アジアにおいては、清という大国の滅亡による、その後継争いが主たる争いの原因であり、それは経済的問題と言うよりも、列強の介入と共産主義の勃興によって悪化した、国際政治的問題であるが、それについては国際経済問題を取り扱ったこの会議では当然のごとく全く触れられていない。そして、通貨や貿易の問題というのは、ほとんどが日米間の問題であり、要するに、この会議は、日米問題が第2次世界大戦の原因であった、という非常に一面的な解釈によって全てを総括することで、戦後の経済を中心とした国際体制をアメリカに都合の良い形で構築しよう、という意図の下に開かれたものだと考えて良いのだろう。為替レートの均衡と通貨切り下げ競争を避けると言うが、その本質は、競争力のなかったアメリカが強いレートでの金本位に固着し、それに従属的に日本が金本位に復帰しなかったことであり、その解釈がアメリカ視点でのみなされる、それはまさに戦争責任の問題に直結することでもあるのだが、それによって国際経済のゆがみが発生しているのだと言ってもよい。その意味で、一方の大きな当事者である日本なしに開催されたこの会議では本質はなにもわからないし、仮に日本が出席していたとしても、井上準之助亡き後その問題をきちんと説明できた人間がいたとも思えない。それがいれば、少なくとも日米戦争に至ることはなかったのではないだろうか。

On May 25, 1944, the U.S. government invited the Allied countries to send representatives to an international monetary conference, "for the purpose of formulating definite proposals for an International Monetary Fund and possibly a Bank for Reconstruction and Development.IBRD." (The word "International" was added to the Bank's title late in the Bretton Woods Conference.) The United States also invited a smaller group of countries to send experts to a preliminary conference in Atlantic City, New Jersey, to develop draft proposals for the Bretton Woods conference. The Atlantic City conference was held from June 15–30, 1944.

アメリカと、イギリスをはじめとした欧州の問題意識は、その意味で最初からすれ違っており、アメリカがIMF的な通貨管理機関を中心テーマと考える一方で、ヨーロッパにとっては復興問題が第一であり、そこではそれぞれ経済圏が隣接していることもあり、通貨価値の急激な変動も起こりにくいために、通貨問題というのはそれほど重要な意味を持っていなかった。それは、中国以外はこの会議には参加していなかったアジア諸国についても言える事であり、通貨が問題となるのは、距離のある欧州やアジアに市場を求めたい、アメリカの一方的な都合であったと言える。本来的にはアメリカがやるべきだったのは、地理的に近接するカナダやメキシコ、そして中南米諸国との経済圏を整え、為替がそれほど影響しない体制を構築することだったのだが、そのことについては未だにアメリカが学習しているようには見えない。基本的には、通貨価値の変動が貿易に影響するような遠隔地との取引に依存する経済というのは不安定なものなのだ。それは、現在の国際経済体制においても、エコの観点からしても肝に銘じることではないかと感じる。

The agreements
* An adjustably pegged foreign exchange market rate system: Exchange rates were pegged to gold. Governments were only supposed to alter exchange rates to correct a "fundamental disequilibrium."

国際的に明示的に金本位を定めたのはこれが最初なのではないかと思うが、その時点でやはりかなりゆがみが入っているのだと思われる。銀本位であった中国やメキシコが入っていながらそのようになってしまったのは、そのメキシコにおいて銀から金への移行が進んでいたということが大きいのだろう。そのあたりのメキシコ政治にも興味があるが、今はそこまでは見られない。
とにかく、金をスタンダードとするから、それによって物価変動が一面的となって、結果としてそれが激しくなる。それは物価変動ではなく、金価格の変動というものを反映することができないからだ。今時本位通貨が必要とも思わないが、金銀複本位であれば、金が高すぎると思えばその時点で銀本位に切り替える、という柔軟な運用ができ、結果としてオーバーシューティングを防ぐことができただろうに、という感覚は受ける。

* Member countries pledged to make their currencies convertible for trade-related and other current account transactions. There were, however, transitional provisions that allowed for indefinite delay in accepting that obligation, and the IMF agreement explicitly allowed member countries to regulate capital flows. The goal of widespread current account convertibility did not become operative until December 1958, when the currencies of the IMF's Western European members and their colonies became convertible.

貿易銀という非常に便利なシステムを継続的に使っていれば、convertibleなどと言うことを意識せずに、はるかに柔軟な貿易インフラが、特に太平洋地域には存在していたのに、それが跡形もなく破壊されてしまったのが非常に残念。

* As it was possible that exchange rates thus established might not be favourable to a country's balance of payments position, governments had the power to revise them by up to 10% from the initially agreed level ("par value") without objection by the IMF. The IMF could concur in or object to changes beyond that level. The IMF could not force a member to undo a change, but could deny the member access to the resources of the IMF.

国の貿易収支という考えは、本位通貨があるから発生するのであって、貿易銀と国内通貨という二本立てであれば、国の貿易収支など意識することなく、個々の経済主体の貿易銀の持ち高だけで貿易が行えることになる。これは、しっかり検討していないのでわからないが、ケインズのバンコールの基礎になっている考えでもないかと思われる。ここにも、IMFの一面的で独善的な設立の影響が見られる。

* All member countries were required to subscribe to the IMF's capital. Membership in the IBRD was conditioned on being a member of the IMF. Voting in both institutions was apportioned according to formulas giving greater weight to countries contributing more capital ("quotas").

さらに参加国の資本出資によってIMFの資本自体が金本位の資本循環に取り込まれることで、世界経済が金、あるいはドル本位に統合されてしまうことになる。これは、銀を本位通貨とした貿易銀、そして各国の金本位という戦間期までの国際経済構造よりもはるかに劣化したものであり、それがドル乱発による現在に至るまでの金融バブルの原因となっていると言えるのだろう。

Encouraging open markets
The seminal idea behind the Bretton Woods Conference was the notion of open markets. In his closing remarks at the conference, its president, U.S. Treasury Secretary Henry Morgenthau, stated that the establishment of the IMF and the IBRD marked the end of economic nationalism. This meant countries would maintain their national interest, but trade blocs and economic spheres of influence would no longer be their means. The second idea behind the Bretton Woods Conference was joint management of the Western political-economic order, meaning that the foremost industrial democratic nations must lower barriers to trade and the movement of capital, in addition to their responsibility to govern the system.

重商主義的な貿易収支の考えを固定させたIMFの設立が経済ナショナリズムを終わらせる、というのが何ともピンぼけ。国益を追求し続けるが、経済的手法はその手段ではない、というところから戦後のアメリカの軍事的覇権主義が生まれているのだろう。
ここで言うWestern political-economic orderのWesternというのは、おそらく西洋を指していたのではないか、と思うが、それがソ連のブレトンウッズへの不参加によってヨーロッパの東西という風に解釈が変わり、東西冷戦の考えの基となっていったのではないか。

ITO/ICU

The Charter, proposed by John Maynard Keynes, was to establish the ITO and a financial institution called the International Clearing Union (ICU), and an international currency; the bancor. The Havana Charter institutions were to stabilize trade by encouraging nations to "net zero", with trade surplus and trade deficit both discouraged. This negative feedback was to be accomplished by allowing nations overdraft equal to half the average value of the country's trade over the preceding five years, with interest charged on both surplus and deficit.
Lionel Robbins reported that "it would be difficult to exaggerate the electrifying effect on thought throughout the whole relevant apparatus of government ... nothing so imaginative and so ambitious had ever been discussed". However, Harry Dexter White, representing the United States, which was the world's biggest creditor, said "We have been perfectly adamant on that point. We have taken the position of absolutely no."
Instead, White proposed an International Stabilization Fund, which would place the burden of maintaining the balance of trade on the deficit nations, and impose no limit on the surplus that rich countries could accumulate. White also proposed creation of the IBRD (now part of the World Bank) which would provide capital for economic reconstruction after the war. The IMF as agreed to at Bretton Woods was much closer to White's proposal than to Keynes's.

この会議でケインズによって国際貿易機関(ITO)と国際決済連合(ICU)が提案され、そこで黒字にも赤字にも利子を課す決済通貨バンコールも提案されたが、ホワイトの絶対反対の立場もあって、アメリカ議会を通過せずに実現しなかった。アメリカは自由貿易の擁護者どころか破壊者であったと言えよう。こうして散々黒字をため込んだあげく、いざ赤字となったらニクソンショックで全部ひっくり返す、というルールもなにもあったものではないことをするのだから。その観点からも、ニクソンショックとは何であったのか、というのは厳しく問われなければならない。

Ratification of Bretton Woods Final Act and Savannah Conference
The Articles of Agreement for the IMF and IBRD signed at Bretton Woods did not come into force until ratified by countries with at least 80 percent of the capital subscriptions ("quotas"). The threshold was reached on December 27, 1945.
The institutions were formally organized at an inaugural meeting in Savannah, Georgia, on March 8–18, 1946. Notably absent from Savannah was the USSR, which had signed the Bretton Woods Final Act but had then decided not to ratify it, rejecting the inclusion of the dollar alongside gold and ciiting that the institutions they had created were "branches of Wall Street". The USSR never joined the IMF and IBRD, though its successor the Russian Federation did in 1992. Australia and New Zealand were likewise absent from formal participation at Savannah (Australia sent observers), though they joined the IMF and IBRD later.

そんなこともあってか、ソ連は結局ブレトンウッズには参加しなかった。その成立事情を考えれば、ソ連がその体制を「ウォール街の支店」と言ったわけも理解できよう。

Influence
Because of its success in founding two international organizations that have had long and influential lives, the Bretton Woods Conference is sometimes cited as an example worthy of imitation. In particular, since the collapse in the early 1970s of the system of pegged exchange rates agreed to at Bretton Woods there have been a number of Calls for a "New Bretton Woods".

この経緯を見れば、ブレトンウッズをモデルにすべきだ、などという考えにはどうにも至らない。ブレトンウッズをベースにして考える以上、金本位が理想であったという考えから抜け出すことはできず、それは世界経済の可能性を大きく制約する。まずはブレトンウッズを徹底的に批判することからしか、新たな世界経済秩序は構築され得ないだろう。

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