【ハスモン朝の謎を解く】『マカバイ記』の意義
キリスト教のカトリックとプロテスタントで、正典に入れるか外典とするかで立場のわかれている『マカバイ記』。その『マカバイ記』で描かれるハスモン朝について考えてみたい。
となっており、基本的にハスモン朝と呼ばれる中でも、シモンのところまでが『マカバイ記』に書かれていることである。
ということで、シモンがシリアからの独立を達成し、ローマから承認されたが、そのシモンは娘婿であるプトレマイオスに暗殺された、となっている。
ここで、プトレマイオスという人物に暗殺されたという部分が引っ掛かる。時代は遡るが、同じようにプトレマイオスという名の人物に殺害された人物として、アレクサンドロス3世の後継者でバビロニアにセレウコス朝をひらいたセレウコス1世がいる。
このプトレマイオス・ケラウノスは、セレウコス1世の同僚でエジプトにプトレマイオス王朝をたてたプトレマイオス1世の息子とされる。プトレマイオス1世はアレクサンドロスと共にアリストテレスから学んだ学友であり、アレクサンドロスの死後にエジプトに王朝をたてることになった。
ここで、果たしてアレクサンドロス3世なる人物が本当にいたのか、ということが引っ掛かる。実は、アレクサンドロスの没後にそのあとで最大の版図を得たセレウコスは、アレクサンドロスに関する記録の中では非常に影が薄いようだ。そんなセレウコスは、アレクサンドロスと同様インド方面に向かっている。
これは、本来ならば原典を確認した方がよい内容であると思うが、インドに入ることができなかったというところで、アレクサンドロスの東限と重なる。更に、チャンドラグプタという名は同時代のギリシャ資料には出ていないようで、後につけられた名前のようだ。そして、チャンドラというのがアレクサンドロスの別名としてイスラム圏で広がっているイスカンダルという響きに近く、それは実際アフガニスタンのカンダハルでは頭のisも抜けており、チャンドラと非常に近くなっている。また、それはガンダーラという地名についても同じことがいえる。グプタというのは後にグプタ朝を作った同じ名を持つチャンドラグプタ1世の父の名であり、更にはセレウコスと会ったというチャンドラグプタの宰相カウティリヤの別名とされるヴィシュヌグプタにも用いられている。だから、チャンドラグプタのもとの名は単にチャンドラ、あるいはイスカンダル、アレクサンドロスに近いような名であったのではないだろうか。つまり、この詳細はまた別に検討する必要がありそうだが、アレクサンドロスはギリシャの出身ではなく、インドの有力者であった可能性があるのだ。その場合は、アレクサンドロス3世の活躍したとされる時代とは一世代繰り下がることになる。
セレウコスはプトレマイオスの力を借りたようで、それによってセレウコス1世の死後に、プトレマイオス朝によってその功績がマケドニア人アレクサンドロスによるものだ、と書き替えられたのではないか。そしてそれは、実質的にハスモン朝をひらいたヨハネ・ヒルカノス1世が、その父としてのシモンをセレウコス1世に重ね合わせることと一緒に行われているようだ。つまり、ハスモン朝の始祖としてシモンという人物を作り上げるのに、それをセレウコス1世をモデルにし、それと対立したアンティゴノスをシモンの兄のヨナタンとして、そしてさらにその兄としてのユダ・マカパイという人物をインドのチャンドラグプタをモデルにしてアレクサンドロス3世という人物を作り上げるのと同時に作ることで、ハスモン朝というものの正統性を模索したのではないかと疑われる。その創作話をまとめたものが『マカバイ記』であると言えそうだ。
*令和4壬寅年3月6日追記
「マカパイ」だと思い込んでいてそう記述していますが、「マカバイ」の間違いです。お詫びして訂正します。タイトルだけはあまりにみっともないので変更しました。失礼しました。
そのほか、ロシア・ウクライナ問題の警告が表示されている通り、この記事は(も?)一般的な解釈とは大きく異なり、内容に偏りがある可能性があります。十分に吟味してお読みください。
*令和5癸卯11月19日追記
「マカバイ」訂正の上、再度公開します。内容に偏りがありそうで公開を差し留めていましたが、どうもこの記事の内容が気に入らないところから強い圧力を感じるので、公開することによってどうなるか、様子を見てみたいと思います。
追記として、シモンと言う名と『史記』の作者司馬遷(Sima Qian)のシマという姓が似たような音であることもあり、この『マカバイ記』の内容がインドにとどまらず、中国に至るまでの世界史のかなりの広範囲に影響を及ぼしているのではないか、とも妄想してしまっています。
論理の原点に歴史的文脈が置かれると、その解釈によって論理自体の方向性を定められてしまい、解釈を定める預言者を認定する人や集団に過大な権力が集中する可能性もあります。
現代論理社会の原点にこのような歴史的文脈があるのだとしたら、それはなるべく多面的に解釈を検討し、一つに固まった解釈によって論理の濫用がなされることを防ぐ必要がありそうです。
歴史を学ぶ意味とはそんなところにもありそうです。