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【世界の中の日本】安政の五カ国条約

明治維新へ至る道のりを国際的視点で見るためには、やはり通商条約の締結によって本格的に国際経済体制に組み込まれることとなった安政の五カ国条約から見てゆく必要がある。

ハリスの来日

ペリー来航以来の各国との和親条約締結により、鎖国状態は終わりを告げ、西洋への窓は開かれた。しかしそれは通商まで踏み込んだものではなく、限定的な通信を定めたに過ぎなかった。
そこで、まずアメリカからタウンゼント・ハリスがやってくることになった。領事の滞在については、日米和親条約における和文と英文で内容が違っており、和文では18ヶ月以内に両国が必要と考えた時、となっていた一方で、英文では18ヶ月経過後にどちらか一方の求めによって置くことができるとなっていて、それに従っていきなりやってきたハリスが滞在することになったのだ。和親条約の内容自体、日本語版によればそのような長期滞在を想定したものではなく、和親条約を根拠に領事をおき、そこから開国交渉を行うというのはだまし討ちとしか言えないやり方であった。さらに見ると、この条約は日米蘭漢の四カ国後で作られていたようだが、漢語版では両政府に必要がある時、あるいは18ヶ月経過後米国総領事が下田に設置されるとなっている。18ヶ月以内という制限をつけたということは、交渉当時から日本サイドではこの条項は認めたくないことであったと言え、それがわかった上で英文、そしてさらには漢文の方の内容を変えているのだから、悪質極まりない。実際幕閣はそのことには既に気づいており、おそらくそれが原因となって、松平和泉守乗全と松平伊賀守忠優(のちに忠固と改名)という二人の老中の辞任につながった。修好通商条約で問題となった勅許問題の背景には、出発点におけるこのようなだまし討ちのような仕打ちがあったという事は見逃すことができない。交渉相手が信用できない中、誰が責任をとるのか、というのは非常に重要な事となるからだ。

ハリスの目論見

その背景を見てみると、ハリスはオランダ語通訳を介して交渉に臨んでおり、そしてオランダはその頃から蒸気船の譲渡をちらつかせていた。オランダ語通訳は、混浴を覗いてまわるような人物であり、当然日本語を話せなかったので、実質的には交渉はオランダ商館との間で行われたことになる。そうなることで、オランダは、アメリカの力を背景に、自分の意志ではないというふりをしながら好き放題の条項を設定できることになったのだ。それによって安政4年(1857)には下田協定(日米追加条約)が締結され、アメリカに対して下田に限定的な居住権や領事裁判権を認めたところ、最恵国待遇によって、日蘭和親条約でオランダに開かれた長崎についても同様の規定が適用されることとなった。

条文の順番を見ると、どうも最恵国待遇をてこに日米追加条約を結ばされる羽目になったようだ。そして、それをハリスが誇っていることを見ると、オランダの力もありながら、ハリスが主導して最恵国待遇を使っての条件改善を図ったとみて良いのかも知れない。和親条約の段階で大きな罠が仕掛けられている以上、アメリカに最初から悪意があったと断じざるを得ない。

日米修好通商条約

そんなことがあったためか、修好通商条約の交渉に当たっては、日本側の全権となった岩瀬忠震が、最初から自分たちは通商や貿易のことはわからないからアメリカ側で条文を作るようにいい、そこから問題を一つ一つ潰してゆく、という手法をとることとなった。交渉とは厳しいものではあるが、それにしても、通商を求めてくる方が押しつけのような形で条文案を作る、という形で国際経済体制に入らざるを得なくなったというのは、他に取り得る選択肢は乏しかったとは言え、日本近代化にとっては不幸なことだったと言える。単に一時寄港を定めただけの和親条約からわずか3年足らずでそこまで話が進むという速度から、攘夷論の高まりというのは理解できるし、そしてその条約締結のために勅許が必要とされるようになったこともわかる。それに対する孝明天皇の慎重姿勢も当然のことだろう。江戸幕府になって鎖国を定めた大きな理由として、日本人が奴隷として売られたということがあったことを考えると、奴隷制度を保持しているという情報が入っていたかどうかはわからないが、いずれにしてもそのような強引なやり方をおいそれと認められるようなものだろう。その中で、交渉自体は15回を費やして、日本側としても主張すべきものは主張したものであったと言える。

関税自主権

内容について少し見てみると、まず関税自主権については、今の常識とはかけ離れたことに、というか、貿易に輸出と輸入がある以上、日本側にとってはほとんど常にそういう状態だったのだが、当時においても圧倒的な日本の輸出超過であり、その貿易利潤を関税という形で輸出国と輸入国のどちらが確保するのか、という、現在の議論からはなかなか想像しにくい状態にあった、という事はまず一つ確認しておくべきだろう。そして、ヨーロッパでの平均的な関税率が20%程度であったのに対して、産業の遅れていたアメリカでは、産業保護の観点から50%ほどの輸入関税をかけていた。さらに、日本側としては、それほど大規模な輸入と言うことは想定していなかったので、関税というのは要するに日本から輸出する際の輸出関税の話であり、元々なかった関税を作り出すという意味では、修好通商条約というのは、自由貿易と言うよりもむしろ保護貿易的な条約であった、という歴史的な事実は確認しておくべきなのだろう。
少し脇にそれると、その感覚のずれ、重商主義的貿易と、いわば朝貢貿易に近いような、恩恵としての貿易の感覚の違いを抱えたまま「近代化」に突っ走っていったことが、その後の近代化の進展に伴う矛盾を次第に顕在化させていったことにつながることになりそう。一方で、アメリカのふっかけるような外交交渉の原点は、この対日交渉が、あたかもアメリカが文明を恵んでやったのだ、という話だったかのように、自己暗示、そして世界中に対してもそのように強弁したことにあったのかもしれない。南北戦争を前に、奴隷制度を持つなどまだまだ文明国とは言いがたかったアメリカの「自由」の感覚は、そういうものだ、という最初期の事例としてこの条約交渉はきちんと分析なされるべきものなのだろう。

領事裁判権

引き続いて、領事裁判権の問題であるが、これは非常に歴史的な問題で、そもそもが鎖国に至った経緯というのが、キリスト教の流入、つまり異なった価値観が入り込むことで起こった社会的混乱に対する対応だと言えるということがある。特に島原の乱のように戦乱にまで至るようになった時に、その罪をいかに裁くのか、というのは非常に難しい問題で、誰の名の下でそれを裁くのか、というのは、朝廷にしろ、幕府にしろ、できれば避けたい、という事があった一方で、特に一部の公家などには、歴史的に外国の力を背景に勢力の拡大を図るという習慣があり、それが仏教、あるいは江戸時代には儒教による支配論理の確立という事につながっていた。支配につなげるにしても、中国経由の話ならばともかく、南蛮からのものを直接支配論理に据えるというのは余りにリスクが大きく、それは直接には食えないが、かといってその論理を日本側の論理に従って裁いた時の責任を誰がとるのか、という事もリスクが大きいということで、要するに余り悪いことをしないかぎりにおいては勝手にやってくれ、という、幕府と朝廷との両すくみの状態があったと言える。これは、国民国家的なものが成立する前の状態で想像すると、基本的には遠く離れた本国の法に守ってもらうという状態はそれまで考えにくいことで、他所から来た外来者は、皇帝、あるいは天皇の恩恵の下に、その国の法によって保護される、という考えが自然だったところで、他所からやってきて自分たちの法を押しつけてくる、という異常な状態への対処の仕方に戸惑った、という状況も考えるべきことなのだろう。

そして、このあたりはまさに責任力学のようなもので、幕府と言っても全く一枚岩ではなく、いかにリスクをヘッジしながら発言権を増すのか、というさや当てが繰り広げられていた。例えば、水戸の斉昭は尊王攘夷で、最終的に天皇の名の下で攘夷を行うという勇ましい主戦論を吐き、一方で老中で、通商開始後輸出品目の中心となる絹の生産を奨励し、その産地に育てた信州上田の松平忠固は、先に書いた通り和親条約の内容違いに関わって一旦老中を辞めているのだが、勅命を受けることなく、幕府の独断で条約締結すべきだ、という態度を、一旦老中を離れて改名してから再任するという形で老中首座にならないようにして主張する、という勇ましいのか腰が引けているのかわからない立場をとっていた。要するに、通商を始めれば儲かることがわかっていた上で、どれだけ自分のリスクを極小化し、利益を最大化できるか、という功利主義的な精神が十二分に発揮された結果だとも言える。そしてそれは、そのような行動が積み重なってどのような結果に至るのか、と言う事を示す興味深い事例になった。
現場の交渉担当としては、一番上の意志決定がこのような形でなされている中での最善の交渉を尽くさないといけないという非常に難しい立場に立たされていたのだと言える。そして、そのきっかけとなった日米追加条約は下田奉行名で交わされており、その後ずっと交渉を担当する岩瀬忠震は関わっていなかった。不平等と言われる関税自主権と領事裁判権の問題は、このようにして定まったのだった。

不平等条約の歴史

ここで、不平等条約の歴史のようなものをひもといてみると、一般的にはアヘン戦争の後の南京条約が不平等条約のはじめとされるが、それはそこまで細かい規定を定めたものではなく、その後のイギリスと中国との間で交わされた虎門寨追加条約で細則が定められている。きちんと読んだわけではないが、さっと見たところ、そこに関税自主権や最恵国待遇に関するような記述はないように見受けられる。領事裁判権については言及があるが、あくまでも犯罪処理手続きの中で、お互いの国民をお互いの法で裁く、という事で、同条約内でイギリス人の行動範囲などが厳しく制限されていることを考えると、それほどの不平等性は感じない。しかしながら、その翌年に結ばれたアメリカとの望厦条約になると、一気に不平等の色彩が強くなる。片務的、一方的にアメリカ側の権利を書き込んだ、まさに不平等条約のはしりであると言ってよいものに見える。おそらくだが、先に出てきた最恵国待遇というのはこの条約で初めて出てきたものではないかと考えられる。そしてその破壊力が日本の開国交渉において炸裂したわけだ。そんな望厦条約がひな形となって日米修好通商条約へとつながってゆくようだ。
清の側で、この違いに気づいていた外交官がいて、そしてそれが日本への情報として伝わっていれば、アメリカを最初の交渉相手に選ぶ、などと言うことはなかったのだと思われるが、オランダとイギリスの関係性から、オランダ経由の情報では、イギリスが危険であるという情報で流れてきていたのだろう。そうでなくても、和親条約締結の時のイギリスのどちらかと言えば融和的な態度を見れば、最初の交渉相手としてはイギリスが適切であるという判断が効きそうだが、そこもおそらくオランダの介入があったと思われる。というのは、幕府はオランダから観光丸という蒸気船の提供を受けており、その気前の良さからすっかりオランダからの情報に頼り切りになった印象を受けるからだ。どの時点で正式に贈与を受けたかわからないが、日米追加条約の後に交わされた日蘭追加条約でかなり通商に関わる規定が細かく定められているので、おそらくその交渉とあわせての贈与だったのだろう。不平等条約と言うことで言えば、この日蘭追加条約、そしてそれに先立つ日米追加条約にもっと注目すべきなのだろう。そしてこのオランダへの情報依存は、幕末の対外摩擦が、ほとんどがイギリスとの関係性で起こってくるという形で顕在化することになる。

さて、安政の五カ国条約で、日英修好通商条約を結んだ時に、通常は20%の輸入関税を、綿製品と羊毛製品については5%にする、という事が決められ、これが関税自主権を発揮できなかった最初の事例のようにもされるが、実際の所、綿織物はともかくとして、毛織物は日本では生産していないわけであり、その関税を下げて輸入するというのは、輸入側にとっても合理的な判断だと言える。ただ、このイギリスからの要求を入れたことが、最恵国待遇によって全ての国に適用されるようになったとは言えるのかも知れない。
また、前回、日仏修好通商条約交渉の時にナポレオン3世が来日した、と書いたが、開国前に皇帝がわざわざ時間をとって極東までやってくることは考えにくく、当時の他の日程を見ても日本に来たとは考えられない。こんな事も含め、特にフランスや絹に関わることは、事実とは思えない情報も混じっているので十分に注意が必要となる。こういったことはなかなかすぐに全体像が明らかになるとは思えないので、少し時間をかけながら解明していきたい。

結局修好通商条約までしかいけなかったが、今日はここまでとしたい。

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Emiko Romanov
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