見出し画像

【言ってみる】私は、ガラパゴス

私は、ある時からマンガや創作小説(自分では書いてますが)、テレビなどから離れている。

それも、学校から上がってすぐのような方の創られたもの。実際社会や人とのふれあいでは学んでないものはシャットアウトしている。

フィクションの世界で創られたものは所詮フィクション。その中には、偏見が多い。実際社会に通用しないどころか、害を為すものも多い。害を為すものいわんをや。避けたい。

漫画の中には、少女漫画の中には、自己の成長をストップさせ、人間的成長を妨げるものもある。

社会人として当然のことを、びっくりされて「器のなんて大きいの!」と、驚愕され、こちらのレベルがまだまだ社会人として、小粒でも、まるでヒーロー扱いだ。まるで、子供が大人を見て言うことを、大の大人が、漫画を描いている人が言う。

そら恐ろしい。

それらのものとは、距離を取っている。自己が危うくなる。

私は、ガラパゴスだ。
じつは、子供の頃から、殆どテレビを見ていない。私が、唯一、「この人なら感覚を分かってくれそうだ」と、期待を寄せるのも、同じくテレビを見ずに育った友人だ。
十年ほど前に、偶然出合い、お互い用心深く、時間もないのであまり話す機会もないが、テレビの世界に、偽りの箱に、影響されず育った世界観に期待を寄せている状態。

なんとなく、砂漠の中で、故郷の人に出会ったようだ。

お互い、「テレビを殆ど見ないで育った」と、知ったのはここ数ヶ月。

私は、ガラパゴス。

よく、珍しい。小説の中の人のようだ、面白い、と言われるが「事実は小説より奇なり」。世の中には、実際珍しい本当のことが多い。

けれど、正直、私も最近、ドラマや本にばかり浸っている人に囲まれて、自己の経験からくる智慧や、世界観、あるべきものを見失う時も出てきた。

かえりたい。


学校だけから上がった人は、そこだけの人。
社会に触れず、年上の大人に触れず、世の中に触れずにいる人は、私には、なにか違ったものに見える。

子供のころから、我が家の小さな工場で、下町で、長屋の子どもたちの中で育った頃が、懐かしい。
あの頃の大人が懐かしい。
テレビが出てきてまだ間もなく、まやかしの世界にどっぷり浸かる人も少なかった。あの当時は。

あれは、今から五十年ほど前か。


私は、ゲームをやらない。それなら、外を出歩いて、色々なものを見る。

テレビも見るものは厳選する。

本も社会経験を積んだ人のものしか見ない。

けれど、最近、周りに社会経験を積んだ人が居なくなってきて、飲まれそうで怖い。
本ばかり読んで、ドラマやテレビばかり見ている人に囲まれて、飲まれそうで怖い。

そら恐ろしくて叶わない。


フィクションは、所詮フィクション。

事実にある世界とずれているものもある。

それが見えていないのに、

「テレビのように斜に構えるな」といわれ、
自己が揺らぐのが本当にそら恐ろしい。


特に、怪我で、ここ数ヶ月、外に出られなかった。テレビも殆ど見ないが、新聞の社説でさえ、アレッと思うときもあり、

なにか、寂しい。

時々、それでも、

昔の感覚、いえ、実社会に生きた感覚を持つ人に出会い、
空気を吸える気分になる。

最近、闘っている状態。


他の人の立場なら、こんな観念をわざわざ言うこともなかっただろうに。また、怪我をしなければ。

こんな事をいう私はまだまだだと思う。

世の中には、もっと自己がしっかりして、達観できる人もいる。
囲まれただけでは、弱音を吐かない。

私は、まだまだなのに。

幼く見える外見のせいか、風体のせいか、物事をいうと、不自然に大人なので、幼い外見、そのレベルで寄ってきた仲間にびっくりされる。「大物だ」と。
違う。普通の社会人にも私は中途なのだ。

オカシクなりそうだ。

だから、大人になる。外見も。なにかがあって、知られずに、時のゆりかごの中でぬくぬくと、自分の傷を癒やしながら、世間をうろちょろとうろつきまわってきたけれど、

誰かの言ったように、そろそろ偽りの自分で過ごすのやめないと。



#これは私の備忘録
#独り言です
#できれば古田新太やいかりや長介の外見が欲しかった


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?