流れに乗っていく
不意に始まった一人暮らし
今年の桜の写真をまとめてアップしようと画策していたのに、いつの間にかハナミズキのピンクと白の花が、通りを彩っている。
道端のあちこちに可愛らしいチューリップが首をかしげていて、それを眺める私の心を癒してくれる。
思わぬことから一人暮らしが始まって、きょうで11日目。考えてみたら、一人暮らしをしたのなんて、36年ぶりだ。
(個人的に私を知っている人が心配してはいけないのでお伝えすると、離婚したとかそういうことではありません。夫が突然、具合が悪くなり、救急車で運ばれて入院したのでした。命には別状ないし、多分今週末には退院できそうなので、ご安心ください)
過去には、夫の単身赴任もあったけれど、その時は家にまだ末っ子がいた。今は子どもたちは全員それぞれの家庭を持ち、皆が県外に住んでいるので、夫婦ふたりで心地よく暮らす毎日を重ねていたところにやってきた、突然の「おひとりさま」の予行演習のような時間だった。
自由な時間
ずっと「5人家族+1匹」でワイワイ住んでいた家に、二人で住むようになったのでも空間を持て余していたのに、一人ぼっちでそこに居続けるのは、想像していた「自由」とはずいぶん違うものだった。
それまではいつも、東の空が茜色に染まるのを見ると「ひとり暮らしだったら、今から海岸に行って、夕陽が落ちるのを見ながら晩ご飯を食べたりできるのにな~」なんて夢想していた。
でも、実際にそれができる状況になってみたら、夕方のビーチに一人座って海を眺めることは、自然に溶け込むことの幸せは感じられたけれど、それよりも孤独について考えさせられる寂しい時間になった。
コロナ対策が緩んできていたお蔭で、1回15分だけれど、病院での面会が許可されていたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
夫に会いに行くということと、きちんと日常生活をすること(ごはんを作って食べる、掃除をする、洗濯をする、お風呂に入る…etc.)を、自分に毎日課すことが、どれほど精神を正常に保つことに役立ったか、笑い話のようだけれど思い知らされた。
人の命の長さは、年齢によるところのものではないのはわかっているけれど、私より9歳年上の夫のほうが先にいなくなる可能性は、統計的には多分高い。頭で想像していたのと、実際に予行演習をするのとでは、体感は大きく異なった…というのが、今回の学びだった。
ポータルが開いている今
8月の末までポータルが開いているということは、いま私たちは地球上のどこにいても、ふだんボルテックスやパワースポットと呼ばれている場所にいるのと同じようなことが起こっていると言ってよいだろう。
そういうエネルギーがパワフルに動いている場所に行くと起こるのが、すべての感覚の拡大だ。そして同時に、とてもバイブレーションが高い時空に入ることで、そのバイブレーションの高さに合わないものが浮かび上がってくる。
俗にいう「手放すべきモノ・コト」や、もう自分には必要のない「信念体系」は、それをリリースするための事象を無意識レベルで起こすことで、向き合えるチャンスがやってくる。
私にとってのそれは「孤独になること」だったのかもしれない。
目に見えるもの、触れ合う人や動物で、私たちは孤独を癒すことはできるかもしれない。実のところ私も、気にかけてくれる子どもたちや孫、友人のお蔭で、幾分かそれが和らぐ時間を得ることができて幸せだった。
しかし、私が見つめるべきは、そういう現実において「さびしい穴」を埋めることではなくて、自分の根源的な怖れと向き合い、目に見えるもので体感できる幸せのみに依存するのではなく、「自分が今ここに在る」ことと深く触れあうことであったのだと思う。
と同時に、身体を持って人間をやっているからこそ味わえる「他の存在と触れあう喜び」を、改めて深く体感することでもあったと思う。
おまけの気づき
それから、おまけのようにもう一つ気付いたのが、親に対する自分の本心についてだった。
もう亡くなった父の入院のときも、母が以前長期で入院したときも、私は「行かなくてはいけない。けど、あまり行きたくない」という義務感&罪悪感を持て余しながら、やっとの思いで「三日に一日は行かなくては~」と病院通いをしていたことを思い出したのだ。
今、夫に会いたくて、一日も欠かさずに、なんならこっそりもう一回プラスして病院に見舞いに行く自分を知って、私は本当は親のことがあまり好きではなかったのだということに遅まきながら気がついた。
「嫌いな親との離れ方」という本を読んで、すごく腑に落ちて楽になったのに、「私は親のこと嫌いなわけではないんだけど・・」なんてたわけたことを思っていた自分が恥ずかしい(笑)
人間というのは、自分の本心さえ、時には自分自身にカムフラージュしているのだということを改めて思い知ったのだ。
流れに乗っていく
色々なことが露わになり、たくさんの気づきが起こり、必要な手放しが行われ、どんどん軽やかになっていく…。それが今、さまざまな形で、きっと多くの人々に起こっていることだろう。
握っている手は開かないと、新しいものは握れない。そしてその前に、自分が何かを握りしめていることに、まず気づかないと事は始まらない。
びっくりするような「隠れていたもの」を見る勇気と、それらはもう「今の自分には必要がない」と手放す勇気を持つこと。そうして今起こっている大きな流れに乗っていくことが、もう待ったなしで起こっているのだと感じている。