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猫を棄てたことはないけれど

 わたしには村上春樹の小説の主人公を内面化したような仲の良い友人がいる。当然のように陰鬱としていて、決断しても思い悩んでいて、影のある女の子が好きで、人と違う音楽を聞いて、本ばかり読んでいるような人だ。彼が学生時代に村上春樹を読んでいなかったら、どんな人格になっていたか想像できない。彼が異動で2年ほど東京に住んでいたときには、よく神保町のさぼうるに呼び出され、最近は年上の女性とデートしてるだとか、今回は富豪の娘だとか夜の相性まで包み隠さず話してくれた。もう今となっては、彼の話なのか、村上春樹の小説の話なのか、ごちゃ混ぜになっているほどだ。

 『猫を棄てる』を読みたい読みたいと思いながら、すっかり忘れていたら、その彼から、平日の朝に突然電話がかかってきた。「元気しとるね?」彼と話すときには必ずパブロフの犬のように村上春樹を思い出すので、電話を切った後に「そうだった、猫を棄てるを買いに行かなきゃ」と思い出し、家の近くの南天堂書房に行った。相変わらず友人が村上春樹の小説の主人公のようで助かった。

 店の一番目立つところに本はあったので、真っ先に手を伸ばした。ついでに、多和田葉子の特集が載っている群像の6月号と「動物と人間は愛し合えるか?」の松浦理英子と濱野ちひろの対談が載っている文學界の6月号も一緒に買った。

 家に帰って『猫を棄てる』を読み終わったあと、とても寒い日だったので、わたしは浴槽にお湯を張って浸かりながらひたすら目を閉じて考えた。

 本を読むときに、何が書いてあるかよりも、何を書いていないか見つける方が面白いことがある。わたしが読み落としていなければ、村上春樹は一度も「アルバムをめくった」「写真を見返した」「日記によると」という発言をしていない。彼の父親の戦争体験に関する話については下調べや確認作業をされたのだろうと感じたが、おそらく写真や日記を辿る方法で書かれたものではないとわたしは解釈した。彼の脳の中を半世紀以上たゆたんでいたものが、濾紙を通って濃い一滴となってツツーっと落ちてきたのだろうと思う。その透き通るような一滴をみる彼の視点で語られる父の記憶をわたしたちは古写真をめくるように、モノクロの映画を見るように読んで追体験するのだ。台湾出身の高妍さんのイラストレーションのおかげで、霞んだ記憶が蘇る温かい演出がなされていて、とても居心地がよかった。

 この本を読んで記憶に残っているのは、やはり猫を棄てるシーンだ。戦後の平穏を取り戻した家族が、平凡な日常を送っていることはどれだけ幸せなことだっただろうか。親子で海辺に棄てた猫が家にいつの間にか帰って来たときに、文章には書かれていなかったが、少年と父親が顔を見合わせて笑いあったのではないかと、その姿を想像しながらわたしは泣いた。長い人生で二人の人間がこうして心を通じ合わせる瞬間というのは、実はなかなか待っていても来ないことだ。ましてやコロナ禍で部屋に閉じこもっているわたしたちは、誰かと一緒に出かけて一生記憶に残るようなきっかけを見事に奪われているのだからいっそう泣けた。

 もし、父親が存命なうちに本が出ていれば、「その記憶は僕も覚えている」「猫を棄てに行った理由は実は...」と答え合わせができていたのではないかと思うと、読者としては少し惜しい気持ちがある。それは、父と子の葛藤を理解することなしに、わたしが無責任な希望を述べているだけで、やはり本の中で村上春樹も言っているように、身内のことについて書くのは気が重いことだろうと思う。ただ、あれだけ教え子に慕われていた教師の父親は、本当は「ねえねえこういうことがあってさ」と話してくれる日を心待ちにしていたのではないかと考えると、それもそれで胸がズキズキしてしまった。親子というのは簡単にいかないものだと、改めてこのエッセイを読んで気付かされた。

 最後に、村上春樹とここまで呼び捨てにしておきながら、村上さんにお礼を一言述べたいと思う。

 するめクラブの都築響さんや吉本由美さんと熊本地震の復興のために「するめ基金」を立ち上げたり、今年はトークショーを地元で開いてくださり有り難うございました。2015年に文藝春秋から出されたエッセイ『ラオスにいったい何があるというんですか?』にもなぜか熊本が出てきて驚きましたが、橙書店はわたしが高校生の頃に通っていた好きな本屋さんです。熊本城を走っているときに子どもが大声で挨拶してくるエピソードには笑いました。あれは、県の小学校では挨拶しなさいと厳しく指導されているからですが、ちょっと全体主義っぽくて怖いですよね。でも、地元の高齢者はあれで元気をもらっているようです。

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