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わたしがわたしを生きる。についての自己対話
世界的アーティストになりたいのか?
なりたいわけではない。
それが浮かんできてしまって、アトリエ改造計画が即行止まった。
絵が描けなくてどうしよう?と思っていたときに浮かんできた(内から)アイディアが、売れっ子アーティストごっこをしてみよう♪だった。そしたら、売れっ子アーティストだったら、アトリエのイメージはどうかな?とか、どんな格好で一日過ごしてるかなとか、浮かんできて、それを妄想していたわけだけれども、そこから今できることをやろうと思いつつ、やる前に、”売れっ子”より”世界的”の方がよくない?と思って、売れっ子アーティストから世界的アーティストに替えて、さあ、アトリエ改造するぞ!と、手を付けたと思ったら、止まった。
そして、
世界的アーティストになりたいのか?
と出てきてしまったのだ。
なんで、このごっこ遊びをやってみようと思ったかというと、絵が描けなかったからだ。そして、これと並行して、逆アファメーションというアイディアがやってきたので(外から)、それもやってみたら、思わぬ効果で、そもそもわたしは何がやりたいのか?ということを言語化するに至った。その経緯は、こちら
で、世界的アーティストになりたいわけじゃないよな。となったわけだ。
やりたいことは、明確だ。
わたしがわたしを生きる。生ききる。魂が望む道を生きる。だ。
わたしの魂が望んでいるのは、お互いがお互いの生きたいように生きることで循環していくこと。
おや?
その世界で、わたしは何をやっているんだ?
みんな生きたいように生きているとしたら、わたしは何をやっている?
生きたいように生きられるようにサポートするとか、いらなくない?
そこじゃないんじゃない???
ただ暮らしている。暮らすために生きている。ちょうど、中国の山奥でそんな暮らしをしている動画を観て、いいなぁと思っていた。
え?
本当?
本当にそれがやりたい?
退屈じゃない?
ただ、暮らすことだけを考えてるとかやったことないから、わかんないや。けど、なんとなく、それは退屈そう。いや、あの動画みたら、決して退屈ではないのだけれど、それは、今回の人生ではやらなくてもいいかなという感じがするのだ。
あれ?
子どもの頃って、ただ、何やったら面白いかな?とか、楽しいかな?とか、あっちに行ったら何があるんだろう?あそこに上ったら、どんな世界が観えるんだろう?とか、そんな単純な好奇心で動いていた氣がする。
彼(彼女)には、どんな可能性が眠っているのかな?
今、わたしの中にある好奇心って、それだ。それって、無限だ。終わりがない。今、目の前にいる彼(彼女)がどれだけのことをしていようとも、これから、どんなミラクルが観られるかな?それを観てみたい。
それだ!
そのための絵だ。そのための料理教室だ。そのための場づくりだ。
そのための手段として、わたしが提供できるものが絵だったり、料理教室だったり、場づくりだったりってことなんだ。まだまだあるかもしれない。そういう自分の可能性も観たいからね。誰かの可能性を観ることは、わたしの可能性をみることでもある。
さて、では、今日はどうしましょうかね。
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