漂流船出港!?:渡米までのなが〜い道のり(1-2)
留学という名の「かいぶつ」
中学校に進学。中高ともに海外教育が盛んな学校で、中学3年生以降になると、毎年数人が留学に参加していたり、反対に海外からの留学生を受け入れていたりと、海外に触れる機会は常に身近にあった。
私自身も、頭の片隅で常に「留学」という言葉が気にかかっていたので、年に数回行われる留学報告会には毎回出席した。しかし、登壇する先輩たちが自信に満ちて、キラキラしていればしているほど、自分からは遠い存在だな、と私の中の小さな勇気はますます萎んでいった。
中学3年生の夏前、初めての留学チャンスの知らせが舞い込んできた。
帰りの会で配られた「エクセター校サマースクール応募について」というプリント。正直、興味はあり過ぎるほどある。
でもいざ「留学」という文字を目の前にした私は怖気付いて、怖いものでも見るかのように薄めでそのプリントを読んで、家に帰るとすぐに資源ゴミの箱にそっと捨てた(それを母が拾い上げていたのが発覚するのはもっと後のこと)。
アメリカの名門ボーディングスクールへの短期留学。これ以上ない条件だった。しかし当時の私は、「こんなもの、もっと上の学年の、英語がペラペラな帰国子女の子たちが受けるものだから」と自分の未熟な英語力を言い訳に遠ざけていた。この頃の担任で、英語教師でもあった I 先生に、「えみりそんなに英語が好きなら留学とか興味ないの?」と個人面談の時に聞かれても「ありません!」と自信満々の笑顔で言い切っていたほどだ。
何をするにも、石橋を手が痺れるくらいまで叩いて、あげくには渡り始める前に橋の方が割れてしまう私は、エクセターのサマープログラムも、結局不戦勝のまま機会を逃した。
しかしこの不戦勝は、のちに思いもよらない形で私の考えを変えることになる。
1ヶ月ほど経った頃、同じ学年のNちゃんが、エクセターサマープログラムに合格したというニュースが私の耳に届いた。このNちゃん、小学校一年生の頃からの大親友であると同時に、私が最も尊敬する人の一人だ(それは何年も経った今でも変わらない)。誰よりも勉強ができて、スポーツが得意で、それでいて努力家の彼女は、私の憧れだった。いつも少し先を行く彼女を追いかけて、私も負けじと頑張ろうと思えた。彼女が隣にいなかったら、今の私はないとつくづく思う。そんなNちゃんが、サマープログラムに合格したと言うのだ。彼女が応募していたことさえ知らなかった私は、虚をつかれたような気持ちになった。いつも隣にいたと思っていた人が、数ヶ月後にはアメリカに行ってしまう。急に遠い存在になってしまった親友に寂しさを感じながら、なんで私は挑戦することさえしなかったんだろうと後悔に襲われた。次こそは絶対に受ける、と負けず嫌いが先行して、あっけなく私の気持ちは切り替わった。
そうしてやってきたのが、チョートサマースクールの募集だった。チョート・ローズマリー・ホールは、エクセターと並び、米東海岸の名門ボーディングスクール(全寮制または大多数の生徒が寮生活を行う学校)であるテンスクールズの一員だ。ニューヨークとボストンのちょうど中間あたり、コネチカット州のウォーリングフォードという小さな町にある。生徒は4学年(日本でいう中3〜高3)合わせて850人強。数あるボーディングスクールの中でも、チョートはThe Murata US Japan Scholarship Program/日米村田奨学金という特殊なプログラムを有する。チョートの卒業生である村田貴士さんにより創立されたこのプログラムは、毎年日本の中高出身者のチョートへの進学をサポートする。私自身もこのご縁で、サマースクールへの参加や、チョートへの進学が実現した。