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雨の夜 (3-4)

「私はスープを食べた。スープを食べたとき、日本語が不在だったので、飲んだのではなく、食べたのだった。」

多和田葉子さんの「千年の壁」というエッセイ集で読んだ一文がずっとひっかかっていた。日本語とドイツ語を操る著者。頭の中に複数の言語が共存し、それらが交互に顔を出すってどんな感覚だろうと不思議に思ったのを覚えている。

私がこれに似た経験をしたのは、留学3年目の秋、ある雨の夜だった。


日曜22:00。

先延ばしにしていた課題を終わらせようと寮の自室で机に向かっていた。部屋の電気は落とされ、デスクランプの周りだけがぼうっと照らされている。

昼間からだらだらと降り続いている雨の水滴が窓に付着してキラキラ光った。

目の前で音もなく降る細い粒子に、ふと「霧雨」という言葉を頭に浮かべた。

留学生活3年目にもなると、英語は私の脳みその大部分を侵略していた。特に英語:日本語の使用比率が9:1くらいになる学期中は、考えごとをしているときも日本語より英語が浮かぶことが多くなっていた。

でもこのときは、日本語で「霧雨」だった。

思えば、英語の雨の表現は非常に限定的だ。雨の種類を区別すると言っても、一般的に使われるのはdrizzle (小雨), shower (にわか雨), pour (土砂降り)くらいのものだ。それに比べ日本語を操る私たちは日頃から、雨の様子、長さ、季節を機敏に感じ取って、「夕立」「五月雨」「お天気雨」「バケツをひっくり返したような雨」と使い分ける。

気になって少し調べてみると、日本語には実に400以上の雨の名前があるという。そして私が何気なく思い浮かべた「霧雨」という言葉は、低い層雲から降る直径0.5mm未満の細い雨のことを言うそうだ。

なかなか良い線いってる?

でも、もっとピッタリな言葉を見つけた。「秋湿り」これは秋の夜に長く降り続ける雨、またそれによって空気が冷たく湿っていることをいう。いま窓の外で降っている雨はまさに、秋湿りだ!一人で密かにほくそ笑んだ。

多和田さんがスープを食した体験を「飲んだ」のではなく「食べた」と認識したように、私は目の前の雨を、単に小雨という意味のdrizzleではなく、「霧雨:低い層雲から降る、直径0.5mm未満の細い雨」や、「秋湿り:空気を冷たく湿らせる秋の長雨」として記憶した。

そういえば。

この気づきに既視感を覚え、社会学のノートを開いた。数日前の授業で取り上げられたSapir Worf Hypotheisis。Linguistic Relativity としても知られ、日本語では言語的相対論と訳される。

端的に言えば、「どの言語を使うかが、それを使用する当人の世界観、物の見方を支配する」という仮説だ。

「言語が身の回りのあらゆる現象に意味を与え、区別する役割を担っている」と言い換えることもできる。

この仮説は、「現実世界の把握は使用する言語に起因するものではない」という、それまで主流だった言語心理学の仮説に意を呈するものとして、1900年代前半に登場した。

最初に聞いた時は、軽くジャブを食らったような感覚になった。だって、私はずっと、世界に普遍的にある現象、例えば「雨」が先に存在していて、それに言葉が後からついてくるものだと思っていた。ところがSapir Worf Hypothesisに習えば、「雨」という言葉を使うことで、人は初めて空から水が降ってくる現象を、固有なものとして認識するということになる。

つまり、使う言語が違えば、目の前の現象をどう捉えるかも変わってくるということだ。

英語話者と日本語話者が横に並んで同じ雨を見たとして、それを具体的にどう頭のメモリーに書き込むかは異なるだろう。豊富な雨用語を引き出しに持つ日本語話者は英語話者に比べて、雨が降った季節、時間帯、強さなど、より詳細な情報を記憶するかもしれない。

とすると、日本語で思考しているときの私と英語で思考しているときの私では世界の見え方が違っているということもあり得るのだ。なんだかとってもおもしろい。

これなら英語でエッセイを書く時の不自由さや、ディスカッションで思うように意見を伝えられないもどかしさも、まあいいかと思えてくる。だって自分のポケットに、周囲の見え方を変えるレンズが一つ増えたのだから。

この体験は私の言語の壁に対する「恐怖心」を「好奇心」へと変えてくれた。


子どもに「どうして勉強しないといけないの」と聞かれて困ってしまう大人は多そうだが、私は一つ答えを知っている。

知識が一つ増えると、自分の惨めさに押し潰されそうな日でも、その状況を少し俯瞰で見られるようになるのだ。

分厚い英語の本を前に頭を抱える自分を、「ふーん、二つの言語のはざまで葛藤してるのね」みたいに呑気に高台から見下ろしたりなんかしちゃったり。

だから、学ぶというのは一種の護身術だと思うのだ。どんなにどん底にいようとも、少しの知識があれば恐怖心は好奇心に変わる。置かれた状況を学問的に分析することができたら、心はふわっと軽くなる。



ルームメイトと散歩した雨の夜

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