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消点

とある日曜日の夕暮れ時。
聴き慣れた音楽と共に、白い着物に身を包んだ男が現れた。それに続いて、色とりどりの着物を着た落語家たちが舞台に躍り出る。

「さあ今週も笑点の時間がやって参りました!司会の春風亭昇太です!」

白い着物の男は朗らかな口調で番組の幕開けを告げた。

「さて皆さん、実は今週から 少々ルールが変わります...」

「えっ?何よそれ、聞いてないよォ...」
司会の思わぬ一言に木久扇は戸惑いを見せている。

昇太は構わず続けた。
「説明します。これまで通り、良い答えには座布団を差し上げますが..................
もし悪かった場合は...座布団を全て剥奪した上で、お弟子さんやご家族共々、落語協会の会員名簿から永久かつ完全に削除します。

観客の間にどよめきが起こった。
普段は自信に満ちた表情で大喜利の回答を披露している落語家たちも、この時ばかりは顔を強張らせ、額には冷や汗を滲ませた。

「......ややっ、おのれやりおったな昇太❗️」
円楽は驚きと焦りのあまり、たまらず立ち上がった。
「勝手にルールを変更しやがって❗️......狙いはわかってるぞ。永遠のライバルであるこの俺を日曜日のお茶の間から消し去り、笑点を我が物にしようという魂胆だな❗️」

「状況が呑み込めたようですね円楽さん。しかし少し間違っています。私はこの番組を我が物にしようとしているのではありません......全ては既に、私の手の内にあるんですよ。」

「お前、よくも軽々しくそんなことが言えるな。俺たちや師匠が、どんな思いでこの番組を作り上げたと思ってる❗️目を覚ませ昇太。笑点は俺たちみんなの物だろ❗️」

「いいえ、今後この番組は完全に私の管理下に置かれることになります。
これから先、永遠に。
数十年後、私の肉体がなくなった後も、水槽に入った私の脳がお題を発信し、君たちの解答に審判を下し続けることになるでしょう。」

「そうはさせねえ❗️」
円楽は扇子を手に取ると、司会の、いや、かつては司会であったが 今や邪智暴虐たる独裁者と化してしまった男の座っている方角を目掛けて勢いよく放った。扇子は春風亭昇太の冷たく光る眼鏡をかち割らんとするばかりの勢いで、まるで矢のように一直線に飛んでいく。

その時だった。

鮮紅色の影がどこからともなく出現し、風を切り裂いて進む扇子の行く手を阻んだ。

山田隆夫である。

真っ赤な着物の袖によって弾かれた扇子は弱々しく虚空を舞い、ステージの下、客席前の薄暗い空間に吸い込まれるように消えていった。

円楽を真っ直ぐ見据える山田の顔に、かつての穏やかな表情はもはや微塵も見られない。どうやら今や彼は、春風亭昇太の命令を忠実に遂行するだけの下僕と化してしまったようだった。
これまで落語協会に幾度となく巻き起こった派閥争いにおいて、いずれのグループにも与することなく中立を保ってきた山田までもが、今や春風亭昇太の傘下に収まっている。その事実を前にして、恐怖におののかない笑点メンバーはいなかった。落語家たちは確信した。昇太は本気だ。この番組を完全に支配することを目論み、はるか昔から粛々と準備を重ねてきたのだ。白い着物の内側には、どす黒い野望が渦巻いている...

円楽は必死に涙を堪え、震える拳を握り締めながら次なる一手に思考を巡らせたが、状況は限りなく絶望に近かった。彼の口から漏れ出たのはほとんど捨て台詞に等しかった。
「おのれ昇太、俺はお前を絶対に許さねえ❗️何年かかっても良い。必ず笑点を皆の手に取り戻す❗️」

阿修羅のような形相で昇太を睨みつける円楽に対し、昇太は冷淡な視線を向けながら言い放った。「なるほど、それがあなたの答えということですか。全く......悪い答えですね。

悪い答え...
その言葉は即ち、落語家としての円楽の終わりを意味していた。
会場にこれまでにないほどの緊張が走る。

「何?......まさかお前、早速俺を......やめろ❗️昇太、やめるんだ❗️」

「円楽さん、あなたを落語界から追放する。山田くん、そいつを連れて行きなさい。

「かしこまりましたァ...」

「何をする❗️おい❗️」

黒子たちに羽交い締めにされ、上手へと引きずり込まれてゆく円楽。残された落語家たちは呆然とした表情でその様子を見つめるしかなかった。普段は座布団が保管されている場所としか認識されていなかった上手の舞台袖が、今日はまるで無間地獄への入り口のように見えた。

しばしの沈黙の後、昇太が口を開いた。
「山田君、皆さんに例のものを配って下さい。」

「かしこまりましたァ......」

得体の知れないさらなる恐怖が会場の人々を襲う。

「おい、円楽は無事なのか?」
好楽の問いにも答えずに、無表情を貫く山田がメンバー達に手渡したのは、円楽の肖像画が刻まれた銅板だった。

踏みなさい。
昇太が言い放つ。メンバー達はうろたえた。長年共に歩んできた仲間の顔に簡単に足を乗せられる者などいないだろう。しかしここで昇太の命令に背けば、どのような結末が待っているかは想像がつく。メンバー達は大粒の涙を流しながら、畳の上に置かれた銅板に震える足をゆっくりと置いた。

「よくできました。大変良い答えだと思います。山田くん、皆さんに一枚ずつ座布団をあげなさい。」

「かしこまりましたァ」

もう誰も昇太に歯向かえないのだという諦めの空気が会場を包んでいた。
数十年の歳月をかけて積み上げられてきた笑点の文化が、ガラガラと崩れ落ちる音が聞こえた。

この日を境に、長い長い圧政の時代が始まった。
当初は昇太の強引な覇権の握り方に対し疑問を投げかける視聴者も多かった。しかし風化というものは恐ろしい。時間が経つにつれ、一人、また一人とこの話題への関心を失っていき、新秩序の元で運営される笑点がごく自然に人々の心に受け入れられるまでに、そう長い時間は要さなかった。

そしてそれから72年経った2094年現在に至っては、この日の出来事を思い出す者は皆無に等しい。それどころか、このターニングポイントを実際にリアルタイムで目にした世代の人々の多くが既にこの世を去り、もうほとんど残っていない。

時代は移り変わってしまった。変わらないことはただ一つ。春風亭昇太が笑点の頂点に未だ君臨し続けているということだけだ。

もはや誰も気づかないのだ。
かつて舞台に向かって右から2番目に座っていた勇敢な戦士が、今や存在の痕跡ごと抹消されてしまっているということに。
2041年のリニューアルで色とりどりのポップな空間に様変わりし、華やかになったと評判な新スタジオであるが、実はある一つの色、そう、紫色だけがなぜか一切使用されておらず、舞台上のどこに目を向けても見当たらないということに......。


「さあ今週も笑点の時間がやって参りました!司会の春風亭昇太です!」
2094年3月7日、日曜日。
司会の声が会場に響き渡る。しかし司会の席に白い着物の男の姿はない。代わりに置かれているのは、水槽と2つのスピーカーだ。そこから流れる無機質な声は昇太の声のサンプリングデータから作られた人工音声である。水槽に浮かぶ昇太の脳の意思を読み取ったコンピュータにより音声が作成され、スピーカーから流れる仕組みとなっているのだ。

しかし、この異様な光景に疑念を抱く者は誰もいない。もう慣れきっており、何も感じないのだ。観客席からは72年前と変わらず拍手が沸き起こる。

今週もまたいつも通り、あの大人気番組が始まった。

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追記(2022/9/30)
この記事は円楽さん在籍中の2022年3月に公開した完全なるフィクションです。

円楽さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。長い間私たちを楽しませて下さりありがとうございました。

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