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【短編】ハンザキ


親指の破けたストッキングを床に捨てて、
開け方を無視して封を破った。
私が送ったそれよりも遥かに薄く、
小さい封筒の中には
A4の紙ペラが2枚。
感情のない文字列を必死に目でなぞる。

私は。
私は・・・ー-ーー


**********


「もう、来なくていいよ」


その言葉を聞いた。

次の瞬間、私は自分の部屋で
コンビニのワインを1本空けていた。
時間も場所もタイムスリップしたみたいに。
好きでもない赤ワインはケミカルな味がして
私の世界はグワングワン揺れる。

「なーちゃん、面白いよ!」

遠くで友人の声が聞こえた。
聞こえたはずなのに
どんな音かは思い出せなかった。
映像も浮かんでこなかった。
カナコ。彼女はそんな名前だった。

「なーちゃん、書いてみれば?」

・・・何を?

「お話。なーちゃん面白い話いっぱい知ってるから絶対面白いよ!」

無理だよ。私、本読まないし、
テレビも観ないし、
なーんにも知らないんだよ?

「大丈夫!なーちゃん物知りだから!」

顔も声も思い出せない、
メガネをかけた彼女は
私に訴えかけた。

微睡の中、私は、思い出す。


ハンザキナオ。28歳。
元OL。最近会社をクビになった。

クビになったのはつい最近の出来事だ。
正直、会社の環境はよくなかった。
サービス残業、休日出勤。
タイムカードにケチをつけられ、
上司は出来もしない仕事を引き受け、
それを私に押し付ける。
それも私にだけだった。
労働環境は最悪だった。
でも、生きていくには仕方がなかった。

ずっと、ずっと我慢していた。
毎朝の満員電車も、
上司からの騒音も、
何もかも。

私の毎日は本当につまらないものだった。

ある時、中途採用で
1つ下の女性がやってきた。
彼女はとても聡明で、
メガネをかけていた。
仕事ができる彼女を面白くないと思った上司は
彼女に仕事を押し付けるようになった。
それでも彼女は涼しい顔で
その仕事を時には往なし、時にはこなした。
次第に彼女への鬱憤は私へと向くようになった。
些細なことで私に怒鳴り散らし、
自分のミスを私の責任にすり替えた。

職場仲間は公開処刑される私の姿を
憐れみながら眺めつつ、
誰も手を差し伸べてはくれなかった。

いつしか私は、眠れなくなった。
気づけばオルゴールの音が流れる待合室にいた。
そこにいた中年男性は皆、俯いていた。

夜、涙が意味もなく止まらなくなって
処方された半錠の薬を飲んだ時、
世界がグワングワン揺れて、
もう、戻って来れない気がして、
病院に通うことを辞めた。

次の日、私は上司にまた処刑された。

そしてそのことを月報に書いた。
上司よりも上の上の人に
現場のことを知ってほしかった。
一筋の希望を信じた。


そして私は危険分子となった。


「上司を批判し、物事を全て他人のせいにする」
「向上心がまるでない」
貴族達に裁判にかけられた庶民に
反抗する力も、知識もなかった。

死刑宣告を受けた後、
憐れみの目で見ていた仲間達の視線は
冷たいものになっていった。
誰からも触られず、
その空気に耐えられなかった私は
いつも、トイレに籠り
ひっそり泣いていた。

デスクに戻るとき、
メガネの彼女と鉢合わせた。
彼女は全てわかっている顔をした。

「ごめんなさい」

彼女はなぜそう言ったのだろう。
そして私は何も言葉が出なかった。
セリフを貰えなかったエキストラのように
ただ、立ち尽くすしかできなかった。

そうして彼女は立ち去った。
壊れそうで、でも強い彼女の背中を
カメラは追っていって、
私は世界に取り残された。


********

ハンザキナオ、28歳。
私には、彼氏が居た。


出会いは大学だった。
同じサークルだった。
彼はお調子者でいつもみんなの中心にいた。
そんな彼は、いつも私に声をかけてきた。
当時の私は鈍感で、二人で出かけても、
それを『デート』だと認識していなかった。
突然彼に告白された時は、
ドッキリかと思って笑い転げた。

断る理由なんてなかった。
一緒にいるだけで幸せだった。

情熱的な彼はいつも私をエスコートして
知らない世界へと連れ出してくれた。
夏は花火を見に行ったり、
冬は星を見に行った。
まるで映画の主人公のように
一緒に多くの世界を眺め、
家でくだらない喧嘩をした。
苗字がどうだとか、
結婚したら猫を飼うとか、
老後はどうだとか、
そんなことばかり考えていた。
この人となら幸せな未来が描ける。
そう信じて、止まなかった。


「別れてほしい」


12月11日。
彼はそういった。
あの、薬を飲んだ時と同じように
世界がグワングワン揺れた。
世界がすべて幻のように思えた。
彼の隣には知らない人がいた。

なぜ泣くの?

目の前の二人は泣いていた。
私は喫茶店の背景と化していた。

そこに私の存在などなかった。

「別れてほしい」

目の前の二人は主人公とヒロインのように
熱く、燃え上がっていた。

「君と一緒にいてもつまらないと感じるようになった」

そこに、私の意思など関係なかった。

用意された台本通り、
私はその場から立ち去った。
怒鳴り散らせばよかったのか。
泣いて縋ればよかったのか。

外に出て、振り返ると、
ガラス越しに手を取り合う主人公達が見えた。

私は呆然と道を歩いた。
自殺してしまおうかと思った。
爆弾が落ちてきてくれればいいのにと願った。
喫茶店から遠く、遠く離れた場所で、
小学生達が手を繋いで歩いていた。
その途端、
堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなった。
そんな私に誰も気づかず、
ただ、時間だけが流れていった。


***********


ハンザキナオ。28歳。
12月6日生まれ。射手座。
A型。154センチ。
東京都江戸川区出身。
好きなこと、猫の動画をみる。
苦手なこと、人混み。
小さい頃から勉強が好きで
習い事はたくさんしてきた。
人より早く学んだことや
豆知識を披露するのが好きだった。

話をたくさん聞いてくれた
『カナコ』という友人がいた。
カナコは私の話をいつも聞いてくれた。
カナコだけだった。
私を肯定してくれるのは、
私を見てくれるのは、
私を主人公にしてくれるのは、
カナコだけだった。

「なーちゃんは将来きっと大物になるよ!」

カナコ。
もう声も思い出せない。
何も思い出せない。
彼女は私の世界にとって
ただの背景だった。

カナコは笑った。

「もし私が『オオバさん』と結婚したら『大馬鹿な子』になるね!」

私は笑った。

「私なんて、苗字『ハンザキ』だよ?ねぇ、知ってる?ハンザキってね・・・ーーーー」

世界の中心になれると、
そう信じてやまなかった。
私は、何もかも失い、
今、こうして生きている。


***************



夜の河川敷は
世界でたった一人になったみたいな
そんな夢を見させてくれた。

素足に履き潰したスニーカー。
手にはA4用紙2枚を握りしめ、
荒川の河川敷に立ち尽くす。
暗闇に慣れた瞳で、
もう一度、A4用紙に目を通した。


「この度はご応募ありがとうございました。」
「作品の講評について」

「全体的に山がなく盛り上がりにかける」
「主人公の心情表現が浅い」
「カナコについての表現に乏しい」
「ありきたりな日常に何か一つ変化があると良い」


世界が揺れた。
広がる緑がぐわっと浮かび上がる。
夢なのか現実なのか
あの半錠の薬を飲んだ時から、
いや、本当はもっとずっと前から、
私はもう、
戻れなくなっていたのかもしれない。

「もう、来なくてていいよ」
「ごめんなさい」
「君と一緒にいてもつまらないと感じるようになった」
「ありきたりな日常に何か一つ変化があると良い」

・・

・・・

「なーちゃん、面白いよ!」


ーーーー・・・叫んだ。
その声はなぜか私の耳には届かなかった。
涙が溢れた。なぜかは知らない。
だから心情表現が浅いとか言われるんだ。
でも、わからないんだもの。
わかられてたまるか。
お前なんかに、お前なんかに、
私の想いなんて
わかられてたまるか。

A4の紙切れを丸めて投げた。
暗闇の中溶けていった丸を
目でなぞるのをやめた。
自然に足が動いていた。
知らぬ間に靴を脱いでいた。
吸い込まれるように私は、
真冬の荒川に飛び込んだ。

寒いとか、冷たいとか、
そんなものもなくなって、
汚いとか臭いとか、
そんなものもなくて、
私はただ、
沈むように川底へと吸い込まれていく。

川底で叫んだ。
大きな泡がぶくぶくと弾ける。
体の空気がなくなった。
やっと苦しいと思った。
その次に川の冷たさが身体中を刺した。
苦しくて、苦しくて、
苦しくて、苦しくて、

そして私はこの世界に存在していた。

水面から飛び出す。
夜風がまた、体を刺した。
河川敷の向こうに
夜景がひろがっていた。
暗闇の中にただ一人、
私が立っていた。
この世界にただ一人だけ、


私、が、立っていた。


そして大きく息を吸い込んだ。


「私は・・・ーーーー!!!」









『ハンザキ』 fin.







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