決別。
これは私の垂れ流し文章なので
誰のためでもないんですけど。
最近思ったことを書きます。
以前、「夢を壊された話」
というnoteを書いたことがあって。
私は幼い頃、小説家になりたかった。
今でも好きだけれど
物語を書くことが好きでした。
演劇の道に足を踏み入れた理由は
色々あるけれど、
演劇部に入った理由の一つに
物語を書くことが好きだから
脚本を書きたい。
という理由もあったくらいは
好きだった。
自分が表現したい世界が
小さい頃からあったんだと思う。
事実、高校演劇部時代に
三本の脚本を書いて
人前で披露した。
大学時代も映画サークルに入って
プレイヤーよりも脚本家として
脚本を数本書いた。
コロナ禍になって
仕事が無くなった時も
悶々とした気持ちの中
誰に披露するでもなく
脚本を書いていた。
私のパソコンの中には
書きかけのプロットが
何本かある。
私は脚本や物語を書くことで
自分が表現したい何かを
昇華していたんだと思う。
それは、「江益凛」ではなく
時々表現する
「もう1人の私」の言葉で。
でも、何年かプレイヤーとして
表現しているうちに
私はいつしか本が書けなくなっていた。
爆誕祭の準備の中
はっきりとそれを感じた。
どんなに追い込まれても
絶対に書き上がっていた本を
とうとう私は書けなくなっていた。
周りと比べてのそれとか
自分の信じる面白いを
「言葉」で
表現できなくなっていることを
痛感した期間だった。
それと同時に。
私が表現したいと思っている
「それら」を
言葉で表現してくれる人が
私の周りに沢山現れてるんだなと
思うようになった。
言葉の表現は
得意だと思ってたはずなのに
いつしかそれは
自分は言葉の表現より
体で表現する方が
勝っていると思えるようになった。
周りに現れた人たちへの
劣等感なのかもしれない。
私は負けず嫌いだから
そんな人達に負けたくないと
意固地になってた部分もあった。
でも、先日、
自分の書いた言葉を
4年ぶりに人前で表現して
はっきりと「負け」を痛感した。
表現の世界に
勝ち負けがないことはわかっているけど
スポーツ少女上がりの私にとっては
勝ち負けが全てでもあって
はっきりと「負け」を感じた時、
私がバスケや、剣道を辞めた時と
同じような
「負けた」という感覚を
初めて、文章表現と言う分野で
体験した気がした。
そして。思った。
「脚本を書きたかった頃の
私は、死んだんだ」
って。
先日。MELTの脚本家の
宇城くんと電話する機会があって
雑談を話している中
色んな話をしている中で初めてひとに
その感覚の話をして
「脚本家になりたかった私は死んだ」
と、言語化できた。
どうして?と聞かれたので
「私が言葉で表現したかったことを
私よりも優れた言葉で表現できる人に
出会えたからかなぁ」
と、話したら
「僕も全く同じ理由で
役者をやるのを辞めました」
と、言っていた。
あーそっか。と思った。
人に話すことで
整理できることってあると思うけど
その時やっと
「脚本を書く理由」を
はっきりと捨てられたなと思った。
執着していたと思う。
自分が脚本を書き続けることに。
でもいつしかそれは
役者を続けることで
出来なくなっていっていた。
ある意味ハッキリと
挫折したんだと思う。
小3から続けていた
執筆活動に、ある意味
一区切りがついた気がした。
脚本を書くことをやめよう
って、決心ができた。
とはいえ、気分転換には
また書くかもしれないし
人間なんてコロコロ変わるから
やっぱ書く!ともなるかもしれない。
でも、今の私は
脚本を書くことをしばらくは
しないんだろうなと思った。
もちろん言葉の表現も好きだから
noteで物語や
よく分からない文章列を書くことは
続けると思う。
でも、自分が書いた言葉を
自分で発することは
もしかしたら今後、しないかもしれない。
私には言葉の表現じゃなくて、
別の武器があるんだぞって
思えるようになった。
だから、
あの時の私はもう死んだんだなって。
バイバイってできた気がした。
もしまた、
表現したい言葉達が
私の中から生まれるその時まで
お休みしようかな。
頑張ったね、私。
ゆっくり休んでくれ。
江益凛