よみくだり
先日、シスター岡が陰府下りのキリストの絵を紹介しながら、復活についてお話されました。正教会では「陰府下りのキリスト」のイコンは復活祭のイコンとして定着しています。
アダムとエバを引き上げるキリスト。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キリストの地獄への降下
以下、個人的なメモなので、不正確なこともあろうかと思います。ご了承ください。
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旧約聖書のヨナ書。ヨナは魚に食べられてしまったが、ヨナは魚のお腹の中で祈り、魚はヨナを吐き出した。
神はアダムとイブを造り、楽園を作った。そこは調和のとれた世界。そこには死はない。なぜなら死は神が作ったものではないから。
イブがリンゴの実をつかんだとき(所有、欲望などを持ったとき)、神は彼らを楽園から追い出した。その時アダムとイブには罪として、神がつくったものではない死が入った。
アダムとイブは楽園に帰りたいが、死んで陰府に下る。
彼らを助けられるのは神だけだが、神は陰府には行けない。なぜなら死は神が作ったものではないから。
助けるためには死なないといけない。なぜなら死なないと陰府に行けないから。神は人になり、死ななくてはならない。
だから、乙女マリアの胎に神は入った。人間になるために。食事や環境等で胎児の発育はすごく変わるのに(発育不良だってありうるのに)、神は人を大きく信頼された。だから胎に入った。マリアはイスラエルの娘。旧約聖書で言われていることはよく知っている。「まさか私の胎の中にあのインマヌエルと呼ばれる救世主が?」天使から受胎告知された時のマリアの驚きは相当のものだっただろう。しかも、貧しい私に目を留めてくださったのだから。マリアが「はい」と返事した時の覚悟は計り知れない。
それから30年。特段の出来事はなかった。
旧約に書いてあったことを実現したり、さまざまな奇跡を起こしたのはたった3年のこと。そしてエルサレム入城、最後の晩餐、十字架の上での死。人間としての死。
キリストは死んで、魚に飲み込まれたヨナ、つまり陰府にいるアダムとイブを救わなくてはならなかった。だからキリストは死ななくてはならなかった。だから神は体を持って生まれ、死ななくてはならなかった。アダムとイブを助けるために、神は人間であるキリストとして生まれ、死を通過しなければならなかった。
そして、キリストは魚に飲み込まれ、アダムとイブを魚の腹から救い出した。アダムとイブにつながる全ての死者をも救い出した。死にうち勝たれた。魂だけでなく、肉体も救済した。死がキリストを飲み込んだ時、キリストは命を解放し、多くの人を解放した。
これが過越の神秘。復活の神秘。私たちも一緒に死と復活を体験している。
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十字架の上で死んだのは金曜の午後3時。日曜の朝マグダラのマリアたちが墓に行くとすでにキリストの身体はなかった。だからキリストは復活した、と言われています。この間、生きていたときに地上で行った技以上のこと、つまり神が死から私たちを救うために戦っているのかと思うと、それは神の私たちへの愛の深さの証だと思うと、ますます驚き、今まで以上に神への感謝の気持ちでいっぱいになりました。