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「神との対話」が主張する進化論・創造論について考察する

皆さんは「神との対話」という書籍をご存知でしょうか?
ニール・ドナルド・ウォルシュというアメリカ人の方が、神様と会話した内容を書き留めた書籍シリーズです。

「ウォルシュ氏が会話したのが本当に神様なのか」という問いは少なからず見られるものの、刊行されてから長らく世界中でロングセラーになっています。そして、私にとっての長年の愛読書でもあります。

私は、人間がどうやって生まれたのかについて興味があります。我々日本人は学校教育で進化論を教わります。私たちは猿から類人猿を経て人間に至ったと。

一方、アメリカでは今でも進化論を学校教育で教えるべきではないという意見が根強くあります。アメリカはキリスト教(特にプロテスタント)の影響が強い国です。特にプロテスタントの中でも福音派と呼ばれる人たちはアメリカの人口の4分の1を占めており、聖書の内容を字義通り解釈しようとする人たちです。

聖書には創造論、つまり旧約聖書の創世記の冒頭に見られる物語ーー「神様が6日間かけて世界を作り、アダムとエバという最初の男女を作った」という考えがあります。キリスト教徒の方であれば大体はこちらの方を基本的に信じています(一部、ユニテリアンや自由主義神学を志向する方など、例外はあります)。
私も教会に通っていますが、お話を伺ってみると、牧師の方も信徒の方も、基本的にこの創造論を支持されているようでした。

果たして、どちらが正しいのでしょうか? ちなみに「神との対話」における神さまは、このように説明されています。

息子よ、進化論者は正しくない。私はすべてをーー何もかもをーー一瞬のうちに創った。聖なる一瞬にーー天地創造論者の言うように。そして、あなた方の言う歳月で言えば、何十億年もかかって進化の過程をたどってきた。進化論者が主張するように。
彼らはどちらも「正しい」。聖なる一瞬/何十億年、どんな違いがあるのか?

神との対話第1巻より

この意味がわかるでしょうか?私はこの神さまの説明を聞いたとき、なるほど!と腑に落ちました。例えば、この世界が実はコンピュータプログラムによるゲーム世界だと考えてください。このゲームのプログラムが収められているDVDがあるとします。このDVDには、私たちの世界の歴史が全て収められています。要は、神さまはこのDVDを一瞬にして創ったのです。天地創造論者の言うように。そして、このDVDを再生してゲームを始めてみると、ゲームの世界の中で何十億年の長い歴史を経て、人類が猿から人間に進化していくことになります。進化論者が主張するように。
つまり、この二つは物事の視点の問題を駆使することで「両立する」と言うわけです。

「なるほど、神さま。ナイスじゃん!」と私は当時(中学生の頃でした)「神との対話」を読んで素直にそう思っていたのですが、私も成長して大人になり、さまざまなことを学ぶ中で、最近興味深いことを知りました。

歴史の中で、同様の説を唱えた人がいるのです。

その人の名はフィリップ・ヘンリー・ゴス。19世紀に生きたイギリスの博物学者です。

19世紀当時は、急速に発達する科学技術により明らかになるさまざまな事実と、聖書に書かれている「真理」との矛盾が、人々を悩ませていた時代です。

アイザック・ニュートンをはじめとする数々の科学研究者も、当時はそのほとんどが敬虔なキリスト教徒であり、彼らは科学を志向すると同時に聖書の教えも大事にし、その両方のつじつまをいかに合わせられるか、ということに腐心していたのです。

そんな時代、ゴスは「オムファロス仮説」という仮説を世に発表しました。
「アダムとエバにはヘソはあるのか?(オムファロスはギリシャ語で「へそ」を意味します)」と言う疑問から付けられた仮説名です。

アダムとエバのお腹にもし「へそ」があるなら、創造論に矛盾することになります。なぜなら、へそがあるということは、生まれる前は母親の体内にいて、へその緒で母親と繋がっていたことになるからです。アダムとエバは神が作った最初の人間ですから、矛盾します。

しかし、このオムファロス仮説で考えると、これは矛盾ではなくなるのです。なぜなら、この仮説では神さまが「あえてへそをつけた状態でアダムとエバを創造したのだ」と言う立場をとるからです。

それだけではありません。地中深い地層から出土した恐竜の化石など、聖書の真理を揺るがすような出来事も、神さまが「あえて、数十億年の年月をかけて徐々に生命が進化してきた」という「歴史過程ごと」世界を創造した、という解釈にすれば、創造論と進化論の両立が可能になります。

これは、まさに「神との対話」の神様が語ろうとした内容です。
なんてこった。神との対話の神様はオムファロス仮説支持者だったとは!

と言うのも、フィリップ・ヘンリー・ゴスが唱えたこの「オムファロス仮説」、当人のゴスは「見事に科学と神学の両立を果たした。拍手喝采だろう」と自信を持っていたそうなのですが、蓋を開けてみると、当時の科学界・神学界の両方から批判されてしまったのです。

平たく要約すると、科学界からすれば「仮説自体のエビデンスがない」、神学界からすれば「神がわざわざそんなまどろっこしい創造するわけないだろ!」ということのようでした。

身内からすら批判を受けたゴスは、心折れて、これ以降科学・神学論争から身を引いてしまいます。ちょっとかわいそうですね。

さて、私のような「神との対話」支持者はこのことをどう考えれば良いのでしょう。「神との対話」シリーズや著者のウォルシュ氏に対する批判でよく見られるものの一つに、「語っていることは素晴らしいように見えるが、エビデンスがないではないか」と言うものがあるそうです。

このオムファロス的な考え方も、そうですね。証明のしようがありません。創造論・進化論を見事に両立できそうなナイスアイデアなのですけどね。

神との対話では他にも、モーセの十戒に関する新規な捉え方(「十戒は戒律ではなく神からの約束だった」)などにも言及されますが、こうしたものもエビデンスが示されていません。神との対話はカテゴリ的にはウォルシュ氏による一種の「チャネリング文書」であり、科学論文ではありませんから、そこはしょうがないのかもしれません。ひとえに、私たち読者がどう受け止めるかにかかっています。私は、このオムファロス的な考え方、好きなんですけどね。皆さんは、どう思いますか?

考察ってほどの大層なものでもなかったかな・・・(^_^;)

私のNoteでは、これからも「神との対話」シリーズの内容を、スピリチュアルな観点ではなく、客観的・論理的な観点から考察していきます。
よかったら、フォローしてくださいね。

余談ですが、私の好きなYoutubeチャンネルでも「オムファロス仮説」が取り上げられていたので、URL貼っておきます。


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