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30年戦争とウェストファリア条約を学ぶ

こんにちは。emadurandalです。
最近はエンジニアリングよりももっぱら世界史の勉強をしております。

混迷を深める今日の世界情勢を紐解く上で欠かせない基礎知識として、今回はウェストファリア条約を学びました。

ウェストファリア条約は、1618年より始まったヨーロッパ最後にして最大の宗教戦争、いわゆる30年戦争の終戦処理として各国で結ばれた講和条約です。この条約により、世界は宗教的派遣争いのフェーズを脱却し、主権国家体制の確立がもたらされました。

30年戦争は主に4つの段階に分かれています。第一段階目は、ルターによる宗教改革に端を発し、急速に力をつけてきたルター派・カルヴァン派の連合「ユニオン」連合と、それ以前から確立していた旧教(カトリック)諸侯同盟との戦いです。旧教徒側にはスペイン、新教徒(プロテスタント)側にはオランダが付き、当初内戦の規模だった戦いはすぐさま国際的な戦争に発展しました。結果として勝利したのは旧教徒側で、新教徒の拠点だったチェコ・プラハは旧教徒の支配する土地となりました。

第二段階は1625年、デンマーク王クリスチャン4世がイギリス・オランダの援助を受け、新教徒擁護を掲げてドイツに介入しました。ドイツ皇帝側は旧教徒同盟軍やヴィレンシュタインの傭兵部隊を活用し、このクリスチャン4世の撃退に成功します。

第三段階は1630年、スウェーデン王グスタフ=アドルフがフランスの支援を得て、新教徒擁護、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目にドイツに侵入したことに始まります。結果としてスウェーデン軍は勝利しましたが、この過程でグスタフ=アドルフは戦死します。しかし、ドイツ皇帝側のヴァレンシュタインも皇帝から謀叛の疑いをかけられ、暗殺されてしまいます。結果、新旧両派は和約を結ぶことになります。

第四段階は1635年、フランスが新教徒擁護を掲げドイツに進撃します。旧教側ではスペイン軍が参戦。しかし、スペインではカタルーニャの反乱やポルトガルの独立といった出来事が重なり、形勢が不利になって行きます。やがてフランス・ドイツ・フランス・スペイン各国ともに消耗が続き、戦争継続が不可能になりました。

そこで1644年から講和交渉が開始され、1648年に結ばれたのがウェストファリア条約です。

ウェストファリア条約には特徴的なポイントが4つあります。

1つめは、各国家が他国の干渉を受けずに自らの内政や外交を決定する権利を持つという「国家主権」の概念を明確化したことです。これにより、ヨーロッパ諸国は法的に独立した主権国家として認められ、神聖ローマ皇帝や教皇の権威からの独立も確保されるようになったのです。

2つ目は、キリスト教の分派問題を解決するため、宗教的寛容に関する合意がなされたことです。条約では、カトリック、ルター派、カルヴァン派の三つの宗派が正式に認められ、各国の君主が国内の宗教を決定できる権利が確立されると同時に、宗教的少数派にも一定の保護が認められることとなりました。この合意により、キリスト教分派同士の戦争は終息を迎えることになります。

3つ目は、領土の再編と権力バランスの調整です。この条約により、ヨーロッパ諸国の領土が大きく再編されました。神聖ローマ帝国とその実質的支配者であったハプスブルク家は大きく権益を削がれ、ドイツ諸侯の独立性が強化されました。これによりドイツは長期にわたって統一国家の形成ができなくなります。一方、フランスはアルザス地方を獲得し、スウェーデンはバルト海沿岸の領土を拡大しました。こうした領土再編は、大まかに見ると、各国の勢力の均衡を図るものでした。

4つ目は、国際法の発展と国際会議システムの確立です。国家間の外交が法的な枠組み(条約)の中で行われるべきだという考え方が普及し、国際的な合意のもとに平和を模索するという基本的なルールが確立されました。このウェストファリア条約から、条約交渉は国際会議形式で行われ、交渉参加国同士が一定の合意に基づいて問題解決を議論しようという姿勢が明確化されました。この方式は、後の国際会議や多国間協議の基盤となりました。

こうして、ウェストファリア条約は近代国家の国家主権や国際秩序の構築の重要な転機となりました。現在の国際情勢・多国間協議を見ていく上で、原点を知ると言う点でこのウェストファリア条約を知ることは大変意義のあることです。地域・国家紛争の解決手段がこの条約の以前・以後でどう変わったか、比較してみるのも面白いと思います。


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