初恋相手は結婚相手かもしれない11
留学先に着いてからの一週間はあっという間で、その後の1ヶ月もあっという間に過ぎていった。夢を叶える事は大変だったけれど、叶ってしまうとあっけないのだと同時に感じていた。夢が叶ってしまったわたしは目標を見失いつつあった。
通っていたESLにはサウジアラビアからの留学生が7割を占め、その他はタームによって日本人、韓国人、中国人、ベネズエラ人、タイ人、マリ人などが入れ替わりで勉強をしていた。
最初の3タームをESLで勉強することになっていたわたしは、6レベルあるクラスの4からスタートした。基本的な文法、作文、リーディングの応用レベルのクラスで、日本人は割と簡単だと感じるようなクラスだった。そのため、英語を勉強して数年のクラスメイトに放課後英語を教える事が多かった。自分ではわかっているつもりでも、英語でわかりやすく説明する事は難しいことに気付き自分の勉強にもなっていた。その上色んな国から学生が集まっているので、週末は誰かの家で料理をごちそうしてもらったり、ごちそうしたりと非常に楽しい時間を過ごしていた。
正直、ESLには通いたくないと日本にいる時は思っていた。学部の正規授業を理解できる自信があったし、授業料も高いし、教材も高い。メリットなんてないのになと思っていた。
しかし、思いのほか授業スタイルが違う事、生活を整える事、課題の多さと質の高さを現地で実際に勉強を始めて気付き、ESLから始めた事をよかったと思うようになった。
英語を母国語にしない者同士でないとわかり合えない辛さや、国を離れる寂しさ、そして友達を作る事の難しさを分かち合える仲間は本当に大切だった。ESLを卒業した後も授業終わりに校舎によってみんなと話したり、スタッフに悩みを聞いてもらったりと、わたしの留学中の心の支えになった場所だった。
このまま楽しいだけでESLを卒業するのは違うと思ったわたしは、遅刻欠席をしないこと、どのレベルもall A評価で卒業する事を目標にした。
簡単に見えてとても難しいことだった。
周りの留学生は割とゆったりと構えていたため、同じクラスの履修が3回目だったり、今回はもういいやとドロップアウトしたり、そんな友達が多い中で自分のモチベーションを高く持ち続ける事は、心が弱いわたしにはとても難しいことだった。
2ターム目まではそれでもA評価で修了でき、鬼門のレベル6、学部授業の予備クラスが始まった。今まであった文法やリーディングがなくなり、授業でついていけるようにListeningとnote takingのクラス、文章能力と情報収集能力、引用の作り方などを学ぶ卒業レポートのクラスの2つのみになった。
どちらも重要で、授業ですら大変だったがレポートを書き上げるのはもっと大変だった。しかも与えられた課題は南北戦争について。南北戦争に関わる事ならなんでもいいという丸投げのテーマだった。授業で南北戦争について少しずつ学び、そこから自分でエッセイ(作文)を作り添削を受けるというクラスだった。
レベル6には3人の日本人と2人のサウジアラビア人しかおらず、仲のよかった友人は別のクラスで楽しそうに勉強を続けていた。高め合う相手がいない、個人戦のこのクラスは本当に地獄だった。授業が終わって夜中まで図書館に籠り調べ物をしながらエッセイを書き、サイテーションの仕方がわからないものはチューターや徐々にできていったアメリカ人の友人に助けてもらったり、とにかく自分が追いつめられていったのを覚えている。予備知識がほとんどないアメリカ史で、最も重要な南北戦争をどのように切り込んでいくか検討もつかなかった。
そんな生活が2週間続いたとき、わたしは勉強ができなくなっていた。クラスに行って授業は受けるが、帰って机に向かうと英語も見たくない状況。逃げるように日本のテレビ番組をただただ眺めたり、ぼーっと過ごしたり、ご飯を無茶食いしたり、それはそれは酷い生活を1週間近く送っていた。
そんな中、誕生日を迎え家族から手紙が届いた。
「親の知らないところで頑張ってる事でしょう。無理はしないで、日本に帰ってきたらケーキを食べましょう」
そんな手紙がわたしを動かした。
応援してくれる人がいる、それは心強いことだった。
そこからの追い上げはわたしが一番驚いていた。わからないことは徹底的に先生に聞き、歴史に詳しい友人を捕まえて延々とレクチャーを受けたり、図書館で夜中まで過ごす事も復活した。
そうして1ヶ月に及ぶ卒業レポート作成は無事に終了し、先生に提出した時は感無量だった。
週明け、無事にレポートが認められESLの卒業がきまった。
8月から夢に見たアメリカでの学部生活が始まる。
わくわくとドキドキでいっぱいだった。
当時の成績表とPerfect Attendanceの賞状。わたしの宝物です。