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【雑感日記】 「おかしな日本語(8)」

 今日はみっともない語末表現である「みたいな」について書いてみます。この言葉はすでに30年近くも前から多用する人が増え、口癖にしている人は相当な数に上ると思えます。だいたいこの言葉は知らず知らずのうちに口に付き、使っている本人はしつこく使っているという意識を持っていないと思われます。しかし使わない人はそれが気になってしょうがないものでもあります。

 「みたいな」はどちらかというと無意識のうちに口にする言葉の割に、他人が口にしているのにはわりと気づきやすく、一度気付けばとても気に掛かる言葉のようです。気に掛かるも何も、この言葉は人の発言を軽くさせるばかりでなく、場合によっては人を小馬鹿にしているようにさえ取られる危険性も秘めているのです。直前の発言を「真に受けるなよ」と言っているようなものなのです。

例文です

今度の宝くじで3億円当たったらどうしようかな、みたいな
今度の週末映画とか見に行こうよ、みたいな
ちょっとここんとこブルーだな、みたいな

 語末に「みたいな」をつけることは、
①その言葉に対してやや冗談めいた意味合いをつけたい場合
②自分の提唱や意見などに自信がなく、自分の考えはこのような可能性があるのだと控えめに表現したい場合
③または発言内容の可能性をわざと落とす事で直接表現を避けたい場合
などに現れます。

宝くじ

 つまりしっかり言えた直接表現を最後に「みたいな」という言葉をつける事で曖昧表現にするのです。これは「とかの多用」と同じように本来の曖昧表現よりもずっと使いやすい為にやたらと用いられます。しかし逆を言えば「とかの多用」の場合と同じように本来ある日本語の形を簡略化させる日本語の退化の顕れでもあるのです。何よりも何でもかんでも語末に「みたいな」という言葉をつけるのは聞いている側にすれば鬱陶しいもので、小馬鹿にされているような感じもします。さらに「みたいな」は擬態語や擬声語との相性もよく、例を挙げますと、

あいつのキツい言葉にカッチーン、みたいな
そこで騒ぐとオッサンが飛んできてコラーみたいな

 ここまで来ると一体この人の精神年齢はどのくらいなのだろうと疑問を抱く人も出てくるかと思います。

 「みたいな」に抵抗を感じない人は国語の勉強をし直すべきです。「みたいな」ぬきでも直接表現が出来る程度、自分の発言には自信を持つべきです。曖昧表現が悪いとは言いませんが、「みたいな」の数はもうちょっと減らすべきじゃないでしょうか。何でもかんでも曖昧というのは対人に於いて誠実さを欠く結果になりかねないということ、そろそろ気付いてもらいたいものです。

「とかの多用」ほどの緊急性はないにせよ、「みたいな」は「とかの多用」が目立つ前から目立ち出している言葉です。せめて親しい仲間同士の会話の中だけにとどめ、普通の会話には極力持ち込まないように努力すべきではないでしょうか■

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