【雑感日記】 「おかしな日本語」(20/終)
これまで「おかしな日本語」というテーマで最近の日本語について書いてきました。最終回の今日はその本質についてかなり難しい話をできるだけ理解してもらえるように書いてみます。
この日本語シリーズの主なテーマは「言語は変化するが、それで本当にいいのか」という問いかけでもありました。実際にどのように言語が変化したのか、それを知るには戦争直後の古い映画などを見ればその変わり様は明らかです。
たとえば小津安二郎監督の映画に登場する原節子が話す日本語は今の時代のものではありません。この言葉遣いを今の生活の場面に持ち出してもそれはかなり違和感のあるものになります。つまり言語は知らず知らずのうちに変化しているわけです。
ただしこれらの言葉は実際に存在し、生活に密着していた「生きていた言葉」でもあり、それを今になって耳に馴染まない、おかしいと言ってバカにしたりネタにして笑い飛ばすことはあまりいい考えではないと思います。むしろきれいな言葉だったのではないかとも個人的には思います。
今からさらに50年が過ぎた頃、ついこの間までオンエアされていたドラマを見れば同じように言語は変化している事でしょう。しかしその言語が日本語としての美しさや日本語としての表現、文法などまで変わってしまうかどうかは今の日本語の変わりようによって左右されていきます。
将来の日本語を決めるのは今の言葉遣いです。だから自分はこのシリーズでよく「言語の変化は進化と退化の二つに分かれる」というオックスフォード大学のエイチソン教授の言葉を用いてきました。
同じオックスフォード大学のクリスタル教授の著書「言語」では「方言」について言及されています。方言は普段東北弁だの関西弁という地域による言葉の違いを連想しますが、言語学で言うところの方言(dialect)というのは地域ともう一つは社会の二元的なものであります。つまり社会的な位置によっても言葉の違いが生じるわけです。そしてその中には年齢の違いによる言葉の違いがあってもおかしくありません。自分はそれを第三の要素とし三元的に方言を考えるようにしています。おそらく自分でなくとも現在の言語学者の大半は方言を地域・社会・年齢の三元で分類している事だと思います。
現代社会の中では言語が著しく変化するのはやはり若年層です。若年層の間だけで用いられる社会的方言が現在の日本語のスタンダードになりつつあるのは、それを用いる人口が若年層の人口よりも大きくなっているのがその原因の一つでもあります。悪く言えば日本人そのものが幼稚化している恐れもあります。また言葉の変化をいち早く伝播するメディアが若年層寄りの話題を常に扱っていることもその原因に思えるのです。たとえば少し前までは流行は女子高生が作るとまで言われていました。しかし昨今の女子高生は言うのは何ですが昔に比べると幼稚です。さらにそう言われ続けて久しくなっています。
時代のトレンドを発信するソースの年齢層が非常に偏っている事が間接的に間違った言語の変化にも繋がっているような気もします。もちろんこれまで取り上げた言葉の変化の根元が一定の年齢層だと決めつけているわけではありませんが、可能性は高いものだと思っています。
言語はさらに方言から個人語(ideolect)という概念にまで細分化ができます。たとえば家族間でしか使わない言葉、恋人同士でしか用いない暗号めいた言葉などのことを言います。しかしいつの時代も個人語というものはその上層にある方言の流れに影響を大きく受けます。方言のこれまでのバランスが崩れれば個人語そのものも成立の過程に影響を受け、さらに方言の流れに対する決定権を持ちます。ひとたび間違った言葉が流行りだすとそれに歯止めをかける力が現代社会には弱すぎてはいないかと思うのです。
改めて書きますが、自分は国語学者ではありませんので、最近の日本語の変化について正しく検証してきた訳ではありません。すべて自分が最近感じている事を羅列してきたにすぎません。ただ国語学者ではありませんが、言語学は専門分野でした。言語が変化する過程について、それが方言の変化と深い関係にあることに関してはある程度自信を持って言える事でもあります。
日本語がこのように変化をしている事について、今一度認識してもらいたいと思ってこれまで「おかしな日本語」のシリーズを続けてきました。言葉にうるさいタレントの一人にタモリさんがおりますが、タモリさんの言う事は間違ってはいません。彼は彼で日本語の変わり様を嘆かわしく感じ、事あるごとにテレビを通して多くの人に訴えかけているのです。自分もタモリさんのようにはいきませんが、今一度日本語を見直し、出来るだけきれいな状態で次の世代へと我々の言語を伝えたいと思っています。
「おかしな日本語」 終