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【雑感日記】 「おかしな日本語(5)」
前回に引き続き今日も「とかの多用」について書きます。
なぜこれほどまでに現代人は「とか」を多用するようになったのでしょう。現在、TVのニュースやドラマのせりふなどでは校正がかかるのでとかの多用は見られませんが、一般の会話の場ではすっかりとかの多用が蔓延しています。
この現象は以前の「方」「から」の多用と共通している部分があるのです。それは日本人の文化でもある「間接表現」というものが日本語に強く反映しているからです。これを言語学では"indirect"と言います。意味はそうですね「ダイレクトではない」とでも解釈してもらうとわかりやすいかと思います。
つまり日本人は何事もダイレクト(直接)に言いたがりません。だから話し相手の事項に対し「方」をつける事で意図的にターゲットを不確定化させ、それによって尊敬語のような役割を持たせるわけです。
もとは不確実表現の「とか」もまた言葉のターゲットが曖昧になります。そこでワンクッション置く事で相手との対話がスムーズになるような錯覚を感じているわけです。しかしそれに気付く人が話し相手だった場合は、ただ相手に対して不快感を与えるばかりです。
いくら日本語が「間接表現」の言語であっても、あまりに間接的なものでは会話が成立しなくなる恐れがあります。また「とか」という言葉はそれを構成している「と」も「か」も破裂音です。破裂音は必要以上に文章に混ざって使われると文章が筋立ちせっかくの美しい日本語があっという間に醜くなります。醜い言葉で話をされれば相手にとっても失礼に当たります。「とか抜き」を企業で徹底するのはそういったわけです。特に音の問題以前にいくら日本語でもビジネスでの会話に曖昧表現、間接表現は禁物です。日本人らしさはこういったフィールド上では殺さねばならないのです。そう言った意味では「とかの多用」は命取りでもあるのです。
日本人の思想、日本語の本質から生まれたこの間違った日本語の使われ方は他にいくらでも美しい曖昧表現や間接表現があるのにもかかわらず、どんな場合でも「とか」を用いることで日本語を曖昧にさせる事ができる、言うなれば用法の簡素化であり日本語退化の顕著な例でもあります。日本語独特の"indirect"は今に始まったわけでもありませんし、これを理解できた外国人はそこで日本語の美しさ、魅力をさらに深く知る事にもなります。
しかしあまりに間接的な表現ばかりでは日本語自体が見苦しくもなりますし、さらに同じ言葉でなんでも間接表現を試みればそれだけ日本語の持っている奥深さが失われます。何の気無しに使っている「とか」も多用すれば日本語が乱れますし、それが蔓延する事は日本語が退化の危惧に晒されるということも知っておいて欲しいと思います。
もうひとつに日本人個々が自分の言葉にさえ自信が持てない現状を映し出していると言っている学者もおります。つまり現在は以前にもまして自分の言葉に直接的な表現を持たせる事を避けているということです。結果として簡単に間接表現ができる「とか」と言う言葉を交ぜないと不安になってくるのです。そんな不安は考えすぎで、これもやはり自分の言葉にもうちょっと自信を持ち、会話の時にももうちょっとゆとりを持てばある程度は防げるのではないかと思います。
以前も書きましたが言語は生き物で常に姿を変えます。時代、社会、年代、地域とさまざまなファクターを通し、それぞれ姿を変えていく事は言語の本質でもあります。しかし変化には進化と退化の二通りがあり、この「とかの多用」は間違いなく日本語を退化へと導いているのです。
次の世代に伝えるべき言葉、美しく伝えたいものです。そのためにも「とかの多用」は改めるべき事なのです。それにはまず「とか」という言葉の本質を改めて確認する事から始まると思います。
偉そうに書いておきながら自分も時々ぽろっと口にしてしまう事もありますが、気をつけるようになってからその数はぐんと減りました■