自分の意見を表明すること(橘エリー)
中学生の頃から「マリン」という名前でブログを細々と更新していた。
高校生のとき交通事故に遭い、学業から離れた時期もあった。
ひょんなことから「エリー」という名前を名乗り始め、
Twitterアカウントを一新し、
語感がいいからという理由で「橘」姓を名乗るようになった。
通信大学では、レポートを書く楽しさ(「自分の意見'のみ'で完結させる」という自分勝手そ)を知ったり、人と話す楽しさを知った。
福祉大学では、自分の意見を持つことや相手の話を聞くことの奥深さを知った。
自分の行動は自分で決めていいんだね。知らなかったよ…
自分の行動は自分で決めなきゃいけないんだね。わからなかったよ…
その中で、少しずつ「言葉」の紡ぎかたが固まってきた。
本記事では、それを語ろうと思う。誰でもない、私のために。
その前に
一つ言い訳させてほしい
自分の中から「言い訳はいいわけ?」と責める声がするが、今回は許してほしい
私は心理評価(WAISと呼ばれるやつ)を、今までに3回行っている。
これは、検査後に予定を入れないほうがいいね。
脳のどこかが疲れてる、あぶない。
私は食事用スプーンをぶん投げてしまった。
①2014年12月9日(WAIS-Ⅲ):リハセン
言語理解118、作動記憶102、
知覚統合91、 処理速度54
②2021年7月17日(WAIS-Ⅳ):南病院
言語理解119、ワ-キングメモリ-91、
知覚推理91、 処理速度71
③2022年2月28日(WAIS-Ⅳ):リハセン
言語理解108、ワ-キングメモリ-97、
知覚推理93、 処理速度87
言語理解>>ワ-キングメモリ-(作動記憶)>知覚推理>処理速度
言語理解が数値高い。処理速度が数値低い。
ワ-キングメモリ-(作動記憶)と知覚推理は平均ちょい下
(同年代の平均が100になるようにつくられているそう)
言語理解が高いのは、幼少期からの読書のおかげだろうか。それとも地頭?わからない
もっと幼少の頃だったらわかったのか?
そんな単純な話なのかな?わからない
処理速度が低いのは、交通事故で吹っ飛んだから?それとも「生まれつき」?
本人は「生まれつき」だと思う。
そうだといってくれ
「処理速度が低い≒物事に対する理解が遅い」だろう。
私はたしかに「外界の出来事を自分の中に落とし込む(理解する)」ことが苦手だ。世界の動きは速すぎる、ついていけない…
「世界が私に合わせたらいいのに(高橋優さん『ボーリング』より着想)」
言語理解が数値高い・処理速度が数値低いだけで、
ワ-キングメモリ-(作動記憶)・知覚推理ともに「平均を超えている」わけではないことが悔しい。だが、人並みを自称しても文句は言われないだろう。
一度理解し(情報と出会い、咀嚼嚥下し、消化吸収を終え)てしまえば、
表出することはできる(言語なら、おそらく人より得意)。
言語を用いる「note」の世界は、それなりに現世より過ごしやすい。
「道端ですれ違い、井戸端会議に花を咲かせる」ことがないことが残念といえば残念だが。
橘エリーの「脳力」はさておいて、
本題「橘エリーの言葉の紡ぎかた」にうつろう。
すでに1,000字を超えている。
貴重な時間を私に費やしてくださって、ありがとうございます。
言葉の紡ぎかた:心構え編
私がなにかを表現するとき(なにかを考えるとき)に心がけていること。
「いつでも守っている」とは言わn言えないけれど、できるだけ気をつけている。
➀「自分」と「他者」は違う
他者の気持ちを推し量らず「自分の思いを押しつける」のは、相手に対する侮辱かもしれない。
私は「常に他者を尊重したい」と思っている。
「尊重できたら」と思ってはいるが、尊重できている自信はない。微塵もない。
「他者を尊重している(できている)と驕ってはいけない」とすら思っている。
「他者を尊重する」のは当然だ。だって「他者を蔑ろにしていい理由」がないから。
そもそも価値のない「自分」に価値を与え、時に感謝までしてくれるのが他者なのだから、尊重する理由は「絶対的に」あるでしょう?
「世間一般で言われること」と「橘エリーが思うこと」は異なる場合が多い。
幼少期から「そういう考え方もあるね」と度々言われ、終いには「その考え方おもしろいね」の一言で片づけられるようになった。
→つまり、私の意見に価値はないね(納得)。
②『いま』『ここ』『わたし』
これは2019年頃には言語化されていた。なぜならマジミラの帰り、高速道路で話したから。覚えているよ、今はまだ。
『いま』に近いことのほうが大事。
『ここ』自分の領域(テリトリ-)に近いことのほうが大切。
『わたし』に近しいほうが貴重。
一つずつ説明します。
『いま』
いわゆる「5W1H」を明らかにする。
相手(聞き手)の情報整理の邪魔にならないよう、できるだけ序盤で。
自分も理解しやすいし。
私は時系列順に話している。つもり。
過去が「いま」に関係しないことも多い。「いま」につながることもあるけど、全部ではない。
だから私は「過去」を「今とは関係ないこと」と見る傾向にある。
ある種の「排他的」ともいえる。この考え方は改善させたほうがよい、とわかってはいるのだが、なかなか… 難しい。
『ここ』
話の内容が「私に近い」と、話に乗りやすい。
「私」が行ったことある、馴染みの場所、とか。
「わからないものを脳内で想像することが難しい」という私の脳は、「記録」「記憶」で解決できるといいよね。
その「記憶」さえあやしいけど…
覚えてない(忘れた)ことは多いけど、説明途中で思い出すこともあるから、ややこしいよね…。
『わたし』
『いま』と『ここ』を大切にしたうえで、「わたし」を大切にする。
私が大事ということは他の人を疎かに… ではなくて、
「私の価値観・感じかた」と「他者の価値観・感じかた」が100%同じことはありえない、ということ。
「他者との違いを、いっそ楽しんでやる」くらいの気概を持つこと。
「そういう考え方もあるね」
「そう考えられたら世界は明るいね」など。
自分が「その考え方を取り入れる」かどうかではなく、「そういう考え方に出会えた」ことが幸運だから。
ここで重要なのは「他者の言葉すべてを真に受ける必要はない」ということ。
難しい、それができたら苦労しない。
――仰る通り。私もできていない。
相手の価値観をどれほど「私には受け入れられない」と思っても、口に出さなければ大丈夫。
私はそれで何年か過ごしてきた。大丈夫。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
他者から「ありがたいお言葉」をもらうとき。
相手との関係性によっては、心があたたかく」なったり「心がほぐれ」たりするだろうね。嬉しいよね、心地良いね。あなたの言葉は「オアシス」だ…
相手との関係性によっては、「押しつけられ」たり「投げつけられ」たりするだろうね。かたいよね、痛いよね。お前の言葉は「ありがた迷惑」じゃ!
向けられた言葉すべてを受け入れる必要はない。義務もない。
自分の心に「受け付け」なくていい。突っぱねていい。いいんだ。
憶えておきたいと思った言葉「だけ」を記憶に留めて、後は忘れてしまえばいい。
留めておきたくない「貶された/汚された」記憶が残り、
消えてほしくない「褒められた/感謝された」記憶は抜け落ちこぼれ砕け散る。
「自分にとっていいもの」は遠慮深くて、「自分にとって悪いもの」は我が物顔で。
この歌詞を知ってすぐの私は「…つまり、自分が優しくされたいだけでは?」と思っていた。
でも、違うね。「優しくいる」と、他人からも優しくしてもらえることがわかった。
一度死んで(=交通事故に遭い)、ようやくわかった。
会得、修得はできたと思う、「体得」までできているといいな。
「他人に」優しくいてばかりで、「自分に」優しくいられない。けど。
「自分」は究極「他人」なんだけども。そうはいっても、できないよね…
なんでだろうね…
③他者に憑依すること
『あの人だったらどうするだろうか』と具体的な人物に想いを馳せること。
『あの人』にはなれないけれど、自分の記憶の中に生きる『あの人』に憑依するかのように、『あの人』のことを考える。
頭の中の『あの人』と自分の思考を混ぜて、だんだんまじわって。
でも自分の思考のほうが強く、どんどん自分色に近づいてしまって。
違うんです。私は『あなたの色に染められたい』んです。心からそう思っています。
――それでも、自分が顔をのぞかせる。
この場合の「他者」は、別に「人」に限定した話ではなくて、自分がいる「場所」にも適用する。
ごみを残さない、椅子や机は元の場所に戻す、等々。
「迷惑をかけない」なんてできるわけない、それでも、できるだけ少なくしたい。
④「自分がいなくても世界はまわる」
自分なんていないほうがいいじゃないか、という思いはすぐそこにいつもいるけど。自分はいないほうがいい、とすら思うけど。
「自分に『いてもいい』と言ってくれる場所はあるだろうか」たぶんない。あるはずがない。なくていいんだ。
同じようなことを他者に言われたら「いてほしい」と言うくせに。
自分には言えない。
「他者を尊重する」≒「自分を蔑ろにする」だから、かな?
言葉の紡ぎかた:言葉狩り編
細かいことだけれど、私が気をつけていること。
だいたい「~しない」が多いかな
➀「~してあげる」とは言わない
私が勝手に「~をしたほうがいい」と思ったのだから。
自分の行動に価値などないのだから。
「して’あげる’」なんて、言えない。言えなくなった、言わなくなった。
「やらせていただく」という心で。
「~してくれてありがとう」「こちらこそ、やらせてくれてありがとう」みたいな感じになるかなぁ
おこがましい、というより「図々しい」よね。
他者の言葉(「~してあげようか?」)に違和感はあるけれど、人のことはコントロールできないので、不問に帰す。
➁最初の言葉で否定しない
これは私も「できているのか不安」だけど。
心がけている、ってだけだけど。
否定するつもりはないけど、なんといっていいのかわからず、
いつも「ん~~とね、」と言う。
一言めから否定されるのはつらいよね。自分がされたら嫌なことはしたくない派。
うまく言葉が出てこない。
世の中には、私より処理速度が遅い方もいらっしゃるだろう。
そういう方がいる(少なくとも「可能性がある」)ことはわかっているが、それでも「私は生きづらい」と言う。
こういうのは本来「主観」でいいはずだからね。
③「〜してしまう」と言わない
これも「努力中」だ、しかし自称減ってきた。
「いけない」とわかっていること。「いけない」とわかってはいないこと。
さまざまあるだろうけれど、言葉単体で『この行為は褒められない』と突きつけたくはないな。私は。スムーズに会話できないときだってあるだろうから。
そんな私が「〜してしまう」と言うときは「重大な過失」である可能性が高い。たぶん
「〜してしまう」は気をつけているけど、
「〜しちゃう」はよく言う…。
伝えられる内容はほぼ同じ(だから'控えなきゃ'の対象)のだけど、つい口をついて出てしまう
➂他者をコントロールしようとしない
これはできていない、これからの目標だ。
自分の意見は「絶対」ではない。私の言葉より他者の言葉のほうにより重みがあるのだから、当たり前と言えば当たり前だけど。
私は他者をコントロールしようとしがちだ。
中でも「~しないほうがいいよ」と、禁止しがちだ。
否定の言葉を向けるのは自分だけでいい、はずなのに。
「私の毒牙」にかかるのは「私だけでいい」のにね。
私はこの「毒牙」すら楽しんでいるのに。
私のような奴に成り下がってほしくないのに。
こんな僕を、だれが「愛す」というのか
(アサノマチさん「死にたいわけじゃなくて」より着想)
文字を紡ぐ(文章を書く)上での決めごと
私は生きていく上で「決めごとが多い」奴だから、書くことにももちろんルールがある。
死後(交通事故に遭って以降)書いてきたものは、大体がこのルールを遵守している。
noteにおける「文章」ももちろん、以下に則っている。
①一文は短く
(「ひとつの文は何文字以内」と細かく決めているわけではない)
一文における読点「、」は原則1つ。
死後の世界で創作を始めた頃から始めた気がする。始めた理由は特にない。
一文が長いと、読む途中で途中で見失うことや途中で力尽きることがある。そのとき感じる悔しさを減らしたい。
②(説明)を省略しない
私のnoteを訪れた方がどこから目を通すか、私にはわからない。
私にできるのは
「一読しただけでは理解しにくいだろうな」という言葉すべてに()の中で捕捉説明を加えることくらい。
言葉は違えど、毎回行う。
それが礼儀かなと思っているから。
③否定の言葉を使いすぎない
否定は言葉の力が強いと考えている、ので…
強調したい言葉は特に、気をつけている。
強調する言葉でないときも、「二重否定(〜しないことはない)」はなるべくしないように気をつけ… たいと思っている。
「ない」とバッサリ叩き切るより、ねこの手を添えて柔らかく切ってあげたい。
まとめると
「自分以外のすべてを尊重する(できる限り心がける)」この一言に尽きる。
うつ病が楽になる考え方は、もっと「自分」を尊重すること、なのかね?
私ワガママだから難しいよ
『誰かに迷惑をかけたくない』とかも、ある
「できるだけ毎日投稿」と思い意気込んでいたけど。
「できないものはできない」諦めたほうがいいね。
私には何もできない。税金を使い貯金を切り崩すだけ。
私にできるのは「自分からは死に向かわない」ように、少しでも健康的に生き延びられるように、でも、今すぐにでも死にたい。
できるだけ周りの人に迷惑をかけないように。
最近は「死ぬまで生きたい」と思うようになった。命が終わるときまで、0.1%でいいから能動的に生きることができたら。