あと少し 2023 宵の月 かへり見すれば 絲しき出会い
1月にたてた目標。
要約。抜粋。見やすく。
自分からは死なない
今こうして文字を紡いでいる。死ななかった。
何回か自傷したけど、死ぬ程度ではない。
「軽く」しかやってないからね。
死にたい思いは「人よりある」けど、
「本当に死にたい人よりはない」のだろう。
微妙だね。どっちつかず。
白黒つけたがりの私は、「一思いに死ね」と思うよ。
来年も生きのびられるのか、不安だね。
是が非でも生きのびたい、ってわけじゃない。
でも「だれかからはっきりと生を望まれている間」は、できる限り生きのびられたら、いいだろうね。こんな私でも、死なれると、後味悪いもんね。
私はこんなにも「死にたい」んだけどね?
少額でも稼ぎたい
note記事を一部有料にする案。やる気を蓄えつつ、保留。
強気の300円。
あこ氏からは「有料にしたら見ない」と言われている。後輩たちからお金をもらいたいわけではないが、デジタルだと「そうはいかない」よね。
「(以前渡した卒業研究レポートと)大筋は変わらないから、読まなくて(買わなくて)いい」
だが、ああもはっきり言われると悲しくなる。
もう少し言い方ってもんがあるだろ、と思わなくもないが、私はあこ氏にあまり期待していない。していない、はず。
アテにはしている。その節はどうもありがとう
ありがとうって言われたい
それなりに言われたと思う。たぶん。
言う回数のほうが10倍くらいあるけど。
言うけど、言いたくないわけじゃないけど、それにしても私言うの多くない?
だれか「もう言わなくていいんだよ」って言ってくれ
私は疲れた。疲れはてた…
ちょっとでも、自分の力で生きたい
医療の助けを得た。「自分ひとりの力」ではないよね。別にいいけど。
「力を借りるための力」はかろうじてあった、のかな?
(それすらも主治医ちゃんの口車に乗せられた気がするよ)
(主治医ちゃん本当にありがとう)
来年は医療保護入院でもいいかもしれないな。
でも主治医ちゃんの提案(「入院、する?」)を断れる日があるのかな。
たぶんないよね。どうせないよね。推し医、だもんね。
やっちー(リハビリ病院)の主治医も、とってもありがたいんですけど、
さすがにもう「エリーちゃん」呼びは控えていただきたい。クラークさんと2人「エリーちゃん」呼び。恥ずかしいよ?長くかかる科特有のアレ。「ちゃん」「くん」呼び。
当時未成年でしたけどさー、もう成人してるんだよ?
…まさか、家では愛称で呼んでるのばれてるんかな
ヘルパーさんにお願いし
引越しも多くの人に手伝ってもらい
新居ではわっこさんが手伝ってくれている。
ヘルパー利用は6日から。
その前の5日に通院。
かろうじて生きてる。
死にたい。なくなりたい。
「いなくなりたい」ではなく、「なくなりたい」
『砂時計の最後の3秒』という概念になりたい。
私は来年も生きたいのか
能動的に「生きたい」わけではない。
ただ受動的にでも生きないと、悲しむ人がいる。一緒に暮らし始めてしまった…
受動的な「死んでないから生きてる」日々を続けて、もう何年経ったかな。
某福祉大学を卒業するだろう、って見通しは立たせられなかった。就職活動を始める、社会とのつながりをもつ気力もなかった。
転院したくらいから「死ぬまでは生きてる」という投げやりに変わった、と思う。
(生命が終わるまでは、泣き喚いて足掻いても「生きてる(心臓が動いている)」よなあ… あーやだやだ)
主治医ちゃんの絶対的安心感をもってしても、カウンセラーさん薬剤師さんの安心感をもってしても、
私はまだ「生きたい」とは思えない。
・「思えなくたって生きてるよ(えらいでしょ)」と思う自分がいて
・わっこさんに生かされてる(衣食住のほぼすべてを支えてもらってる)自分がいて
・主治医ちゃん(通院と処方)に生命を握られている(カウンセリングや精神療法、クニ坊氏とのお話がなかったら、かなり弱る⭐︎)自分がいて
私は、私の力で生きているわけじゃない。
死にたいんだよ。
ご飯抜く気力はあまりない。わっこさんがかわいそうだから。
ご飯を食べる気力もあんまりない。
来年も入院したいなあ・・・
願わくば年始。ミク活があるから、5月上旬には鍵の中へ行きたい(8月10日頃に退院できたら、と思う)