とある障害者が思う「ちょっとした」モヤモヤ
↓私ってこんな人↓
私が「やってしまう」こと
「良かれ」と思ってやったことが裏目に出る場合もあれば、単純に「邪魔」をしているだけのこともあります。
⒈壁際に寄って立ち止まることができない
壁にもたれて歩きたい方だっていらっしゃると思うの。
私は座り込んで再び動き出すことが難しい。
(車椅子使用者における「座り込む」は、「その場にずっといる」こと)
止まるなら壁際で、を「暗黙の了解」としている日本社会で、
私だけが「それ(止まるなら壁際で)」に順応できずにいる…。
壁際は、さ?
「疲れた」「身体を預けたい」って方もいらっしゃるでしょう?
だから空けて差し上げたいの。
私のこの気持ちに共感してもらったことはないけど
エレベーターの扉からは距離をとって待機する
降りる方がいるかもしれないから、
(咄嗟に行動できない私は、「あらかじめ」余裕を持っておくことしかできないから)
「降りる人が視認できたら下がればいい」って考え方は、私とは相入れない。
私には「下がる」って行動はとりにくいから。
え、どいて?わざわざ「すいません」って言わなきゃ、だめ?
「最初から」空けておけばいいじゃん。どいておいて?邪魔だよ。
私は「避けなきゃ」と思うから「考えることが増えて」むしろあぶない
『誰か乗っているだろうな』から考えて、多少空けといてもらえたら
あと、私が一番に並んでいたぞ?なぜそちが我が物顔で乗り込む?
そんなに「生き急ぐ」必要はないだろう?出産に立ち合いたい夫かよ階段で行け
この考えもわかってもらえないことが多い。
私は次第に「気にしない」術を得たよ
どうして「みんなに優しいことしてる側」が傷つかなきゃいけないの、かね?
電車に乗るとき
車両に広い空間がある場合
いやお前そこ陣取るなよ、私が「いていい」空間じゃないの?
私もホームで待ってたから、
車椅子使用者が乗るって認識してただろうに、
広いスペースで荷物おろさないでよ
私そこにいたいじゃん…
「すいません、そこいいですか?」
…… 最初から空けとけよ、って思う私は「悪い人」?
周りを見る余裕がない人に対し、なぜこちらが、「ありがとうございます」と返さなくてはいけないのか?
なんの断りもなく車椅子に触るやつ。
びっくりするからやめろ。まず謝れ。
車椅子は私の脚です。身体の一部です。
見知らぬ人にあんまり触らないでしょう?
ふざけんな金とるぞ。
この前、お手洗い前に置いていった。戻ってきたら、知らん人が座ってました。
感謝も謝罪もなかった。
「自分は障害者支援施設で働いている、車椅子を使う人は親しみがある、操縦しててすごい」みたいなこと言ってた。
あっそう。・・・で?それがなにか?私には関係ないよな?
お前の話に興味はない。微塵もない。謝罪を要求したかった。
外の世界は怖いから、うまくしゃべれなかった… 悔しい
今思い出しても苛立つ…
「御託はいいから、まず謝罪だろ?」
思ったけど要求できませんでした…。
ほんと、悔しい。
「感謝」「謝罪」を
すっと言える人間になるために
「思ったこと感じたことを素直に言う」練習ができたらいいのにね。
私は、思ったことをすぐ言えない。
感じたことや思ったことを
➀(脳内で)日本語で言葉にしてみる
➁それを添削する
➂きちっと組み立てる
➃「今」いうことか考える(Time Place Occationに合致するかどうか、など)
➄本当に言うかどうか、悩む
それらを経てやっと 言う(もちろん、言わないときもある) 。
気心の知れた仲になると、「➁添削」する気が少なく(≒失言の頻度が高く)なる。
急ぐ状況に身を置くと、「➂きちっと組み立てる」の最中に「➄本当に言うかどうか」を「言う」方向で考える。すると、「ただでさえ言わなくていいこと」を「支離滅裂な言葉」で伝えることになる。申し訳ない。
自分のペースでできる仕事があったら、成績は悪くないと思う。
「探す元気」「やりたいと告げる勇気」そして「実際にやる元気」がないため、どうせやらないけど…
私がnote公開を始めたのは偶然だ。
ブログっぽい「何文字でも書けるテキスト」を見つけた。
私には「文字を紡ぐ」ことしかできない。
「文字を紡ぐ」ことでしか、私は私を認められない。
(失礼しました訂正します、私は文字を紡ぐことですらも自分を認められないです)
これ↑この思いは「うつ病」が関係してると思う…