朝が届く席
2年ぶりの出張。Aが窓側の席を選ぶのは初めてだった。
ほんとは飛行機に乗るのが好きだし、
飛行機の中で飲むドリンクや
非日常な独特の香りが好きなのだった。
一度ゆっくり窓側の席に座ってみたいとずっと思っていた。
Aは2年前まで、不器用な完璧主義者だった。
飛行機では必ず通路側の席を選び、
到着後はすぐに立ち上がりドアが開くのを待った。
スタスタスタという足音がピッタリで、
すれ違う人には風が吹いた。
会社では上司の機嫌を取り、部下のケアも怠らない。
派遣社員にも雑用を頼まず全部自分でやる。
誰もが見落とす些末なミスに真っ先に気付き、
顧客の対応は誰よりも丁寧だった。
もちろん家族サービスにもぬかりなかった。
息子の運動会で大ケガをして、顔がボコボコの傷だらけになっても仕事には当たり前に出勤した。
野菜で言うと長ネギ、文房具で言うと修正ペンのような雰囲気で、人に嫌な感じを与えないのはその素朴さのせいだった。
Aの一挙手一投足には
欲 というものが感じられなかった。
幼い頃から「あれが欲しい」「何がしたい」と言わない性格だったのだろう。大人になった今もそうだ。たった一杯の、丁寧に自分で淹れたコーヒー。家に帰って飲む、一本の缶ビール。客からもらう小さな褒め言葉。そんな質素なときめきだけで人生を走り続けられるような、底知れないたくましさがあった。
飛行機の心地よい轟音を聞きながら、Aは窓から景色を眺めていた。早朝便の景色は、初めて見るといっても過言ではない。空の上では、白い雲間から太陽が漏れ出している。まるでこの世に存在する色は白と赤だけで、その二色が力を尽くして創り上げたような朝だった。
Aは、地平線の先に人生を見つめていた。
いや2年前の出張の頃のことを。
あのとき、人生はいとも簡単に変わってしまった。
永遠に側にあると思ったもの。
何もかも最初から存在しなかったように失われることを知った。
あの夜、どうすればいいのかわからなかった。
すべてを卒なくこなしてきたAにも
それだけはわからなかった。
突然背後から、優しい色の声が降ってきた。
「淹れたてのコーヒーはいかがですか?朝日がきれいですね。」
客室乗務員は夢のような笑顔で提案してくれた。
Aは我にかえり
「飲みたいです!」
と答えた。
そうして淹れたてのコーヒーを啜った。
もう一度窓から景色を眺めるとまるで違って見えた。
過去ばかり見ていた。
この美しい朝すら見ていなかったのだ。
いよいよ本格的に太陽が顔を見せている。
こんな風に自分のためだけに過ごす朝はどれくらいぶりだろう。
Aはふたたび、コーヒーをゆっくりと口に運んだ。
香ばしい豆の香りがAの席から次第に機内へ広がっていく。
人が淹れてくれるコーヒーはやっぱり、おいしい。
深い安らぎのため息をついた。
Aの顔の上にも、朝日はあまねく届けられていた。
おもむろにパソコンを開いたAは、
ひどく眩しい光にも気付かないほどキーボードをカタカタと打ち込んでいた。
そこには
帰りの飛行機の座席指定画面が映っていた。
Aはまた、
窓側の席に座りたかった。