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とある漁港 / 淡路島

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Jは、熱帯の王国Tの都市Bから、この島にやってきた。Jがここに来る前は、長年の夢だった日本の航空会社で客室乗務員の仕事をしていた。地元を拠点として、週に二、三度東京を行き来する外国人乗務員だった。この会社に入社するのは、地元のテレビドラマの主人公に選ばれるのと同じぐらい高倍率だったが、Jは運が良かった。日本語はとても苦手だったし、東京で遊ぶのに困らない程度に話せればいいと思っていた。それでもJが覚えたての拙い接客用語を口にしてみると、その国独特の鼻にかかった柔らかな訛りが何とも愛おしい印象を人に与えた。それにJがにっこり笑うと、どんなクレーマーも、カノムクロックのような丸い顔に広がる眩しい表情に言葉を詰まらせてしまうのだった。

 Jは、地元ではちょっとしたスターだった。ナイトマーケットやバー、クラブ。どこへ行ってもJの知り合いが誇らしげに声をかけてくる。皆そろって、Jに向ける眼差しの奥には甘美な羨望と狡猾な親密さが潜んでいた。浅はかなJにとって、めくるめく日々はいつも有頂天だった。 

それにしても、東京は楽しかった。地元に無いものが、全て在った。タワーも街もみなキラキラしていて、安っぽい出会いが繰り返される夜は格別だった。Jはいつもフライトの合間に仲間と出かけては写真を撮り合い、きらびやかな若さをカメラに収めつづけていた。

いつか東京ですみたい。東京すんで、かっこいいお金ある日本人のデートしたい。日本人女の子の友達をいっぱいほしい。女の子たちにゴウコンといって、みんな男の子たちの好きがほしい。いつも遊ぶのクラブでDJ話してほしい。みんなの日本人の好きになりたい。

いつからかそう思うようになっていた。東京は、いろんな感じがする。建物、電車、人々の奏でるオーケストラは、鼓膜まで押し寄せてくるベートーベンみたいだったし、暗い高層ビルの隙間で一日中光る電灯は、魂を売ったホタルみたいに見えた。それらは、日毎にJの心を針のむしろのように埋めていくのだった。Jはいつの間にかもう、遠い所まで来てしまっていた。


Jがこの島に来た理由は、恥ずかしくて人に話せるものではない。Jのせいでもない、会社のせいでもなくて、日本のせいでもない憂鬱な不穏が世の中に立ち込めてきても、Jがどうしても手放すことができなかったものがある。Jは地元からも、憧れの東京からも離れ、時間とプライドを両手で握りつぶしてこの島にやってきたのだった。

とある場末の漁港に、Jの姿があった。この漁港に足を踏み入れると、水の中に落とされたように世界が変わる。今もやっているのかどうか分からないスナックやカラオケ、小さな居酒屋がぽつり、ぽつりと見えてくる。寂しいのとも、陰鬱なのとも違う。空模様が移ろいゆくように、渚をかこむ港町にも表情があるのだと、ここへ来てJは知った。港に停まるたくさんの小舟が時折波に揺られてぶつかり、コトン、コトンと温もりのある音を響かせている。ピーヒョロロ…地元では聞いたことのない鳥の声が上空から降ってくる。Jは空を見上げた。この港町には大きな建物がないから、空も海も大きくて、どっちが上でどっちが下なのかわからなくなる時があった。数字のゼロみたいなこの港町では、そんなことはどちらでもかまわないことなのだと、誰に言われなくてもJは分かっていた。


魚を相手にする仕事は、本当に骨が折れる。魚たちの発する体臭や血のにおいは、骨の髄を通り越して心の隙間まで厚かましく染み込んでくる。どうしようもなかった。こうするしかなかったのだ。魚になのか、自分になのかわからないまま言い聞かせる。ただひたすら、この辺りで採れる魚の鱗の美しさだけを愛でながら、命を失った魚たちの体をやさしくさすっていく。


Jがたった一つ手放さずにこの島に持ってきた宝物。それは、自分が幸せそうに微笑む写真を、携帯電話を通じて世界中の支持者に見てもらい、賛同を得ることだった。今日この海辺の人気店にやってきたのもそのためだった。Jが働く漁港には、同じ地元出身の外国人はいないし、日本人の友人もいない。Jはそれでもその日、満たされていたのだ。朝早くに起きて、以前東京原宿の古着屋でゲットした赤いワンピースを身に着けた。これは一番のお気に入り。イタリアかどこかの国で作られたもので、Jはドレスと呼んでいた。このドレスを着ると、Jはキラキラした日々を思い出す。日本人の女の子達と合コンってやつに参加して、男子からの人気を欲しいままにする私や、いつも遊んだ六本木のクラブでDJに気楽に話しかけられる有名な私になれるような気がした。それからは化粧をするのにも胸が弾んだ。客室乗務員時代の癖で、いつも完璧に化粧を欠かさないJだったが、その日はいつも以上に時間をかけた。丁寧に下地とファンデーションで肌を仕上げたら、ビューラーで何度も何度もまつ毛の角度を上げていく。頬にチークは付けずに、ドレスに合わせて唇に赤いリップを乗せてみようかと思ったが、この島にはそんな派手な口紅は似合わないと思った。このドレスも十分派手だけどね、と思いながら。Jにはすでにそんな感性が身についていたのだった。

人気店では、1時間以上並んでやっと海側のテラス席を手に入れることができた。恋人か誰かと一緒に人気のパンケーキを食べにきた写真。日本に来て、憧れの航空会社は大変な状況になったから辞めたけど、もっと有名な会社に引き抜かれて稼いでいて、休日もこんなに充実してる、誰よりもハッピーな私。

Jは一人だった。誰かに撮ってもらったように撮影するには、かなり時間がかかった。日本語は苦手だ。そこら辺の人にお願いするのも気が滅入る。景色の色んな角度、体のポジション、顔の向き、表情。考えないといけないことが山ほどあって、フライトの業務中でもこんなにマルチタスクをこなした経験はないとはっきり言える。最新機能を使って、強い日差しで焼けた肌も、ジムに通えなくて太った体も、すべて完璧に、理想の自分に仕上げるのだ。気付けばここに着いてもう4時間近く経っている。疲れた。Jは、今日一日、ここへ来て。いや。この島に来て、何をやっているのだろうと思った。

海辺の岩場に腰かけて、サンダルの裏を海の表面に付けてみた。上下に揺れる本物の波がJの足の裏を蹴り上げてくる。この辺りは風が強くて、波が高い。すぐにでも人間など飲み込んでしまいそうな冷酷をはらんでいた。Jはそのどこまでもつづく巨大で無慈悲な自然のカケラにゾッとした。この、足の裏を蹴り上げてくる海のうねりは故郷の海に繋がっていて、Jの足を引っ張って故郷の町へ連れ戻してしまうような気がしたのだ。Jは急いで足を引き上げて立ち上がった。 

Jは故郷について思い出すことになった。どこにいても声をかけてくれた知人たちは、今頃どうしているだろうか。きっと家族や友人達に囲まれて、変わり映えのしない退屈で地味な日々を過ごしている。ポケットに入った携帯電話を触れば、彼らの行方はすぐにわかる。でも画面の中に見える世界には、魚たちの強いにおいも、鱗の肌触りも、東京のけたたましいベートーベンも偽物のホタルも、何ひとつ感じない。少しもJの体に、心に、針を落としてはくれないのだった。



写真の撮影と編集に終わった週末が明け、また新しい週が始まった。Jは起きぬけに、週末に公開した自分の写真の評価を確認していた。そこにはたくさんの賛同が溢れていた。母国語で、英語で、Jが作り出した偶像にありとあらゆる賛辞が流れていった。私の努力の対価。代償にした人生。Jは、なぜかこれまで宝石だと思っていたものが一瞬、ただの石ころになってしまったような気がした。あの海辺で、波に足を引っ張られそうになった時のように、空恐ろしくなった。

何もやる気が起きなかった。いつも完璧に仕上げる紫外線対策も厚化粧も、その日は全く手につかなかった。顔も洗えそうにない。朝ごはんもいらない。ただ作業服に着替えて、漁港まで向かうのが精いっぱいだった。これまで感じたことのない憂鬱が、初めてJの心の中に立ち込めてきた。刺さったままだった無数の針が、一本一本、かすれた音を立てて落ちていく。知らないうちにJの心は、だらしなくゆがみながら形を失っていった。



その日は、Jの心の中とは裏腹に久しぶりによく晴れた朝だった。とんびが威勢のいい声で歌いながら上空をふわふわと旋回している。からりとした、爽やかな海風が加工場に吹いてくる。そんな朝にJは、ひとりの漁師から声を掛けられた。はじめてのことだった。日本語が苦手なJは、漁師が早口で発したその言葉の意味がはっきりとはわからなかった。それでも、生身の人間が自分に、ただの私に、話しかけてくれた。そのことで、行き場を失った心にそっと道しるべが立てられたような感じがした。今日は化粧どころか顔も洗っていないし、髪はボサボサだし、とても笑顔なんて作る余裕はなかった。それでも、Jの顔は自然にほころんでいった。Jはその日、日本語を、この島の人が使う言葉を、ちゃんと学んでみたいと初めて思ったのだった。仕事が終わって帰るまで忘れないように、小さく声に出してみた。頭に焼き付いた早口言葉を、ひとつひとつ拾い上げて、何度も、何度も、口ずさんでいった。



「ま い ん ち し ご と が ば て る や か ま い んち しご と がんばてる やか まいにち しごと がんばっ てる やん か …


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Place:幸せのパンケーキ 淡路島テラス / 仮屋漁港

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