中村天風と科学としての東洋思想
夏に狭心症でいつ心筋梗塞を起こして死亡してもおかしくない、という状態だったことが検査で発覚して、そのまま入院治療しました
中村天風の本には10年ほど前に出会って当時それなりに本を読み漁ったのですが、ある程度のところで満足して、もう分かったような気分になっていました。
ところが今回この病気のお見舞いとして本をいただきそれがきっかけとなって新たに目覚めたような形で以前は読んでいなかった本を読んでいます。
治療をしたとはいえ私が目の前にある病気で再発の危険もあって気も弱くなっていたところに、この本は改めて私にここから生きていく上での大きな力を与えてくれました。
これまで色々な本を読んできましたが、これほど実際に力を与えてくれる本はないかもしれない、と思います。
そこでなぜそんなに天風さんの言葉に力があるのかについてまとめてみました。
私たち戦後生まれの現代人は西洋の科学的なものの見方をベースにするのが一般常識になっています。
でも西洋の科学の見方というものも高々近代に始まった歴史の浅いものでしかありません。
それに比べるとブッダが示した事柄というのは、インドの長い歴史の中で培われてきた深い知性が源となっています。
天風さんがその後半生で講演を通じて人々に伝えようとしたのは、西洋医学などの近代科学のものの見方と、ブッダがあらわした世界観を伝える一つの流れである古典ヨガのものの見方を融合させ、私たち現代人にごくわかりやすく解説したものだと思います。
コロンビア大学で医学を学んだ人ですから西洋の近代科学にも強いのです。その上にインドで古典ヨーガを学んできたのです。
近代西洋の文化で確立されている科学的ものの見方というのはある意味世界の半分を綿密に表現したものに過ぎないと私は思うのです。
つまり人間の目や人間が作り出した道具によって分析的に確認できるものの全て、であるに過ぎない。
でも世界は人間の力で確認できることが全てではないことは科学者でさえもわかっていることです。
物事はわかればわかるほど同じ分量だけわからないことが増えるのも現実です。
一方で、ブッダにしても禅にしても天風さんにしても、大事にしていることはトータリティー・全一性です。
天風さんの場合は特に心身統一ということを前面に出していますが、結局のところそこで言いたいことの本質は全一性なのだと思います。
体や物質本意になってもいけない、かと言って理念だけでもいけない、心と体、理性と行動、常にそれが一つになっていないと意味がないのだ、と。
近代西洋科学のものの見方は分析がベースなのでこの全一性とは真逆のところです。
どんなに正確であっても切り分けた時点でもう元のものとは違ってしまう。
全一性は切り分けて捉える部分と切り分けないまま捉える部分と、両方必要だという考え。
生きることそれ自体はいつも全一だというところを忘れてはいけない、ということをベースにしたのが、ブッダであり禅であり天風さんの話なんだと思うのです。
世界の勢力図としていまだ圧倒的に西洋思想側が優位に立っているので、東洋的考えはまだマイナーなところに置かれて、スピリチュアルとか宗教とかの非科学的と言われるようなカテゴリーに入れられてしまいがちですが、実際は西洋思想よりも遥かに深い伝統を持った東洋的な科学なんだと思います。
それを現代人の言葉で現代人の生活に会う形で語りきった天風さんの言葉はまだまだこれからも日本だけじゃなくて世界の人々にも影響を与えうると私は思います。
天風さんは1876年生まれ、92歳で1968年に亡くなっています。
そんな昔の人だというのがどうしても信じられないほど、本を読んでいると今そこで話を聞いているような気分になります。
真・善・美を目指す尊い生き方を!というなんとも単純この上ないことを真剣にストレートに熱く語り続けた人でした。
真の球体や立方体は形としてはとても単純で認知するのは簡単ですが、実際にその形を自分で作ろうと思えば高度な技術がいるように、この真・善・美を実際に生きることは一生をかけて自分を磨いていくことでしかないのだろうと思います。
でもそれはやるだけの価値があるんだ、ということを身を持って伝えてくれたのが天風さんの言葉だと思うのです。
本としては成功哲学のように捉えられるタイトルがついていますが、実際に彼が語っているのは成功哲学というよりは単純に人間が幸せに生きるための技術をわかりやすく説いているのだと私は思います。
そういう意味で限りなくブッダに近い人だと私は思っています。