わたしのこと。【サラリーマン時代 ver.商社 前編 概要編】
こんばんは〜エリーです。
ただいま、自分史振り返りの途中です。
わたしの人生の暗黒期、サラリーマン時代のつづきをどうぞ。
なんだかんだで今のわたしのベースを作ってくれた商社時代、長くなったので前編です。
・サラリーマン時代 ver.商社 前編
百貨店を退職したわたしは、夢と希望に溢れていた。やっとまともな仕事ができる、やりたかったことができると思っていた。
2015年8月朔に入社したのは、某大手総合商社の百パーセント持株の専門商社だった。大手の子会社という、この時点で既にきな臭い匂いがプンプンしているのだが、当時のわたしは夢にまでみた大手商社の一員になれたと自分を誇り高く思っていた。結果として、この会社で過ごした四年少しの時間と経験とが、いまのところ現在のビジネスの最も大きな主軸となり活きている。
この会社は、くだものの果汁を世界各地から輸入し食品メーカーなどに卸すことを収益の根幹としており、わたしはその一番の花形である調達部、いわゆるバイヤー部門に中途採用された。夢にまでみたバイヤー人生の始まりである。これが夢でもなんでもないことを、その後の半年で痛感することになるのだが、無知とは恐ろしいものである。
この時直属となり、右も左も分からないわたしに、調達のノウハウを教えてくれた先輩がいた。この上司は外大のイタリア語科出身で留学経験もあり、六歳年長のキャリアウーマンだったのだが、「こんなに仕事ができる人がいるんだ」「外大生の鑑だ(対して、わたしって一体・・)」というようなよく出来た方で、ポンコツのわたしに根気強くビジネスメールの作法を教えてくれたり、営業部とのバトルから守ってくれたり、何かトラブルがあったときは完璧にフォローしてくれたりと、短いサラリーマン人生で唯一「この方に出会うために、この会社に入ってよかった」と尊敬できるビジネスパーソンだった。
入社当時のわたしはと言えば、それはひどい有様だった。百貨店時代、とある先輩が「この業界にいても、潰しがきかないからね」と半ば諦め半分でぼやいていた通り、いくら第二新卒だからって許される範疇を超えた、まるで使い物にならないシロモノだった。まず、外大卒で英仏語が話せるという謳い文句で入社したのに、肝心のフランス語の出番はないし、そもそも英語圏での生活経験もなく英文メールがなんとか作れる程度、現地との電話に至っては「ハ、ハロー・・・・」で会話が止まってしまう始末。そう、外大生として分不相応なほどの頭でっかちなプライドを持ち、それなりに優等生のレールの上を歩いてきたわたしにとって、この調達部での劣等生ぶりはおそらく人生で初めてに近い大きな挫折であった。
入社してひと月で、上記のスーパーウーマン上司にくっついて中国に出張に行ったのだが、当初は「こんなにすぐ海外出張だなんて、わたしって期待されてる〜!」と気分ルンルン、しかも自分では足を踏み入れたこともない高級ホテル泊に「大手商社ってすげ〜!こんな商社マンのわたしってすげ〜!」と感動しまくりである。しかし、上司に「サプライヤーとの面談と交渉は主にわたしがするので、全て面談メモを書いてください」と唐突に命じられ、全編英語での高速会話が繰り広げられる中、センター試験対策でしかリスニングを学ばなかった身でそんなビジネス英語を聞き取れるはずもなく、悲しいほどの貧相なメモ書きに帰国後上司が肉付けと訂正をしてくれて、完璧な面談メモと出張レポートが出来上がっていたという、トホホ・・な初出張の思い出となった。
調達部の仕事は簡単に言えば、飲料メーカーなどの商品のリクエストに対して、サプライヤーから見積もり取得と納期の確認、成約後は品質や船積みスケジュールの管理などをし、日本に着荷した後はロジ部門と営業部が引き継ぐといった流れだ。わたしが最初に担当したのは、コモディティ(メイン商材)の中でも物量と契約件数がハンパないりんご果汁と、クロップ(収穫)が不安定すぎる超問題児のパイン果汁だった。どう考えても輸入実務未経験の初心者に扱えるシロモノじゃないし、あれは上層部の判断ミスでしかなかったと断言していい。
最初の半年間、以前にも書いた通り「さわり」を掴むのに人一倍時間のかかるタチのわたしは、あまりの意味不明な業務内容と業務量に英語の出来なさ(自業自得)がトリプルパンチとなり、残業が許されていた夜十時まで毎日居残り、気力体力も限界の中で泣きながら仕事をしていた。トイレで泣くのならまだ良い方で、公然とデスクで泣きながらPCと睨めっこしたりしていたので、心優しい先輩たちには心配されていた。我ながらよく鬱にならなかったものだと感心するが、そうならなかったのは多分、やりたい仕事だったからと、どうしてもバイヤー業務をマスターしたかったから、そしてもしここで潰れたらこの先生きていく術がない、という背水の陣で望んでいたからだったと思う。
りんご果汁の主な仕入れ先は中国とニュージーランドと南米、パイン果汁はタイとインドネシアだったので、基本的に現地店(親会社が世界中に配置している支店)やサプライヤーとのメール、電話のやりとりは英語である。ほとんどがメールでのやり取りだから、受験英語で文字に慣れていたわたしにとっては、ある程度ビジネスメールの基本を覚えればそれほど苦にはならなかった。しかし問題は電話である。教育のせいで日本人は皆そうだと思うが、わたしも御多分に洩れずヒヤリングとスピーキングが圧倒的に弱かった。そこにほとんどのサプライヤーは英語の母語話者じゃないので、アメリカ英語の発音しか学んでこなかったわたしにしたら彼らの発音は意味不明で、何を言っているかまるでわからない上、ガイジンはどういうわけか自分の英語に自信満々なので、そのハチャメチャ発音で爆速で喋ってくるのである。初めのうちは本当に困った。困り果てて頭を抱えた。頭を抱えて済むならDMMはいらん、ということで、これはなんとかしないとどうしようもない、即クビだと真っ青になり、DMM英会話に駆け込んだ。当時は一日三十分までのレッスンを毎日受けられて、月額3,980円という今では考えられない破格だったので、【!額面!】19万の超安月給に都内一人暮らしを始めたばかりの極貧サラリーマンだったわたしでも、なんとか自己投資できた。自己紹介の雛形を作り、自分のビジネスについて一通り英語で話せるように、毎日違う先生を相手に練習した。結論として、わたしは腐っても外大生だった。英語圏に住んだことは一度もないし、英語を本腰入れて勉強したのも高校二年の冬〜受験までの丸一年のみだったが、過去に述べたように音を習得するのは得意だったし、高校時代から発音だけは当時仲の良かった帰国の友人の真似をしてネイティブレベル(自称)だったので、毎日DMMで会話を続けるだけでリスニングもスピーキングも飛躍的に上達した。入社後九月時点で、電話口で「ハ、ハロー・・・・」しか言えなかったわたしは(それも外大生としてどうなんだ、ホントに)、翌二月には時差が真逆のチリやブラジルの現地店の担当者と、真夜中に長々と世間話から価格交渉までできるようになっていた。簡単な日常会話やクロップの調査、価格や納期の交渉など慣れた話題であれば、いちいち頭で考えなくてもスラスラと口をついて英語が出た。これには例のスーパーウーマン上司も驚いていた。同じ外大生として汚名返上したかったし、優秀な先輩に褒められるのは嬉しかったので、この短期間でここまでキャッチアップできた自分が誇らしかった。
英語にはある程度困らなくなったが、減るどころか増え続ける業務量に、早くも限界がきていた。具体的に大きなトラブルを抱えていた記憶はないが、おそらくりんごの契約時期だったので作業量がしんどかったのだと思う、二月頃から心身のバランスが取れなくなり、十時まで残業して深夜漸く布団に入るとき「明日、会社に行かなくてもいいよ」と自分に声かけしなければ眠れないし朝も起きられなくなっていた。今思うとかなりヤバいというか、極限状態だったと思う。完全にぶっ壊れる前に、神様はわたしに救いの手を差し伸べてくれた。GW明けに社長(当時調達部の部長も兼ねていた)面談があり、そこで気力体力共に限界であること、これを続けることは難しいと泣きながら伝えた。小さい会社だったので、この訴えはすぐに聞き入れられ、あっという間にコモディティチームからニッチチームに異動が決まった。例のスーパーウーマンの先輩の下でずっと働きたかったので、その点だけは心残りだったが、ニッチチームの上司も天才肌の優秀なスーパーウーマンで、上智大学でポルトガル語を学び、現地で働いていたこともあるという親近感のあるオリジンを持つ、とても懐の広い優しい方だったので、不安は全くなかった。異動先ではキウイやピーチなどの物量が少なめではあるが細やかな価格交渉や在庫管理が必要なアイテムたちを担当した。結果として、わたしにはこちらの方が性に合っていた。転職から一年近く経って、業務の型をある程度マスターしていたのもあるかもしれないが、これまでの激務がなんだったのかと思えるほど、異動後のワークライフバランスは完璧だった。毎日定時の五時半に上がり、夕方から夜を好きなように思い通りに、楽しむことができた。
この頃、初めて強烈に認識したことがあった。
わたしは中学生の頃から「やまとなでしこ」の桜子に憧れ、「美女か野獣」の鷹宮真に憧れ、高校生の時には「離婚弁護士」の間宮貴子に憧れ、良い大人になってからも「BOSS」の大澤絵里子に憧れ・・常に憧れるのは、カッコイイ大人なオンナ、バリバリのキャリアウーマンだった。だから、当然自分もそうなりたい、そうなろうと思って生きてきた。高校の卒アルで、なぜかクラスの「キャリアウーマンになりそうな人ランキング」の一位に選ばれたりして(単に勉強ができたからだけの理由だと思う)、自分を過大評価して調子に乗っていたし、外大なんてエリート大学を出たんだから、大手企業に入って海外を飛び回り、バリキャリの人生を送らなければいけない、というある種の脅迫概念のようなものもあったと思う。
それが果たしてどうだろうか?実際にそこそこ大きな会社をハシゴして、海外経験を活かして仕事をしてはみたけれど、体も丈夫な方ではないしハードワークはてんでダメ。会社のために仕事をしたいなんて一ミリも思ったことはなく、責任の重い仕事はしたくないし、三度の飯よりも大切なのは自分の時間。ワークライフバランス万歳!これがわたしの価値観なのに、それでもキャリアウーマンになりたいの?本当にキャリアウーマンになりたいの?・・・
この時、答えは出なかった。それでも、テレビやドラマで描かれるようなキャリアウーマン像に、多分自分は合わないだろうなと、潜在意識ではわかっていたのだと思う。この事実に本格的に覚醒するまでに、あと四年ほどの時間を要することとなる。
ver.商社 後編に続く。