最近のTwitter保守系垢に思うこと 後編

「差別」というのは誰もが知っている言葉だが、「では、その定義は?」と問われると、明確に答えられる人はほとんどいないかも知れない。

もっとも、私自身、つい最近までこの問いに答えることはできなかったし、更に言えば「その定義」について考えたこともなかった、というのが正確なところだ。

神名龍子さんが、その近著「トランスジェンダーの原理」において、差別についてその本質を非常にうまく表した定義を紹介していらしたので、ここで取り上げさせていただきたい。

相手が属するカテゴリーに不当に劣位の価値づけをすることで自分をその相手よりも上位に置き、それによって自分のアイデンティティを補償する行為

これは神名さんのオリジナルではなく、社会学者の橋爪大三郎さんが1990年代に出版した本の中で述べておられたもののようだ。

他の「差別の定義」を調べて比較対照したわけではないのだが、この定義で特に問題があるとも思えないので、この投稿では差別の定義として、これを用いることとする。


もっとも私はこの投稿において差別について述べたいわけではない。差別というものに伴う「カテゴライズ」にまつわる話をしていきたいのだ(もちろんそれが、最近のTwitter保守系垢に思うこと、に繋がっていく)。

人間は様々な基準によってカテゴライズされているものである。それは人種であったり、性別、民族、出自、性的趣向だったりするだろう。

ここでカテゴライズの基準として「学歴」を選んだ場合について述べてみたい。

稀に「選挙の際、高学歴者の投票は、低学歴者の投票よりも、高く評価すべきだ」などと公言する方がいらっしゃる。公言はせずとも内心ではそう思っている方は多いのかも知れない。

そう言った主張をする方達は、自分達が選挙の際により多くの権利を持った方が、政治における正しい判断ができるに違いない、と思っていらっしゃるのだろう。

しかし、実際にはそのような政策を実施すれば、逆に悲惨な結果になる可能性の方が高い。

高学歴者が低学歴者を馬鹿にしてしまうのは、特に若い頃にはある程度しかたのないことかも知れない。

勉強のできる人間は、自分が簡単に解ける問題を解くことのできない人間を見て、「なぜこんな簡単な問題すら分からないんだ?」と思う経験をしているはずだろう。

そういう経験から一度、差別心が生じると、低学歴の人間の意見を普通に評価することが難しくなる。自分の方が間違っているはずがないと思ってしまうからだ。

しかし、実際には高学歴者の方が政治的に誤った判断をすることがある、というデータが存在するのである。

画像1

上掲の図は、1964年と1968年における米国民のベトナム戦争強硬策支持率の変化を表したものである。

まず前提として当時の大学進学率は低かったので、大卒=エリートであったということに留意する必要がある。

さて数字をチェックしてみると、全体では49%から37%にダウン。大卒以上においては58%から33%という大幅なダウン(増減率はなんと−0.43)だった。

そして中卒以下。こちらは32%から33%であり、ほとんど変化がない。

実は1964年はトンキン湾事件をきっかけに、新聞雑誌を中心に強硬策支持が盛り上がった時期であるのに対し、反戦機運が高まっていた1968年には軍事介入を批判する論調が多くなっていた。

つまりプロパガンダに左右されていたのは、実は「学がある」とされるエリート層であり、一方、大衆はほとんどそれには影響されなかったと考えられる。


ここまで「学歴」でカテゴライズした場合、「高学歴者」は政策の判断という点においては「優位」の集団とすることはできない、ということを確認してきた。

さて、私のこの投稿の読者にはTwitterで保守系アカウントを持っている方が多いことだろう。

現在、Twitterの保守系政治アカウントの間で、ある基準によるカテゴライズが流行っている、と言ったら、それが何であるかすぐに思い浮かぶだろうか?

思い付かない方でも、私が答えを言えば納得していただけるのではないかと思う。

それは「エビデンス」である。

現在、エビデンスを重視しているかどうかで、そのTweetの優劣を判断する方が非常に多い。

また最近、保守中道アカウントがいわゆる「限界」をバカにするTweetが非常に多いが、「限界」というのが、「陰謀論に影響されやすい人達」といった意味で使われていることが多いので、これもまたエビデンスに関わる問題と考えていいだろう。

さて、現在のTwitter保守アカウントにおけるエビデンス(の有無)を基準としたカテゴライズに対して、私は二つの問題点があると思っている。

1、「エビデンスを重視するべき」と言いながら、実際には自分もエビデンス重視とは言えないアカウントが多い

2、エビデンスを基準にするべきではないところでも、基準にしてしまっていることがある

の二つだ。


ではまず、1、の実例を見ていこう。

2月26日(日本時間27日朝)に、アメリカとEU、および同盟諸国がロシアの複数銀行を国際決済システム「SWIFT」から切り離す決定をした。

当初、制裁に参加する国の中に日本は含まれておらず、27日夜になってから岸田首相が日本も参加することを表明した。

アメリカ・EU等の制裁決定の後から、識者の間で日本が含まれていないことを批判する声が上がっており、国民民主党の玉木雄一郎氏も27日の14時半ごろに、日本も制裁措置に加わるよう働きかける、というTweetをしていた。

だが、自民党の平将明議員から、岸田首相による制裁措置参加表明の後に、このようなTweetがあった。


「玉木さんに働きかけられるまでもなく、政府は今日の午前中に主要メンバー国に制裁措置に賛同・参画する旨を伝達済みで、各国からも歓迎の意思表示があったと聞いてます。政府には迅速な発表をお願いします。最近、野党の『私が働きかけたからこうなった。』的な時間差ビジネスが定型化してきています」

「今回のはG7の枠組みではなく、米EUの大西洋協力枠組みで検討されて合意してから、日本に参加の打診があったもの。要はNATOの枠組み。玉木さんもわかっているはず」


この平議員のTweetの後に、それまで日本政府の制裁参加の遅れを批判していた政治家や識者等を嘲笑するアカウントが現れ、それなりの数の「いいね」を集めていた。

だが私が少し調べただけでも、日本の制裁参加の遅れを指摘していた政治家は玉木氏以外に、高市早苗氏、河野太郎氏、(遠回しな言い方だったが)佐藤正久氏などが含まれる。

それに対して平氏と同様の発言をしている政治家は、見当たらなかった。

もちろん、平氏のみが政府内の情報を知り得たという可能性がないわけではない。

だが、高市早苗氏、河野太郎氏、佐藤正久氏、平将明氏と並べて、政治家としての影響力を考えたとき、平氏が最もあると考えられるだろうか?

どう考えても「それはない」としか言いようがない。

つまり平氏の発言はもしかしたら真実かも知れないが、嘘である可能性も高く、少なくとも平氏の発言をもとに、制裁参加の遅れを指摘していた識者を嘲笑していたアカウントは先走った行動をした、としか言いようがない。

それは「エビデンス」の扱い方がおかしいから、そうなってしまっているのである。

彼らには、「自分にとって心地の良い情報しか見ない」、また、「自分にとって心地の良い情報を見たら、後は他の情報を調べない」、といった傾向があるようだ。

これはまさに「陰謀論者」の典型的な特徴であり、彼らに陰謀論者をバカにする資格など全くないというべきである。


続いて、2の「エビデンスを基準にするべきではないところでも、基準にしてしまっていることがある」の実例を挙げてみよう。

昨今、中国共産党によるウイグルでの人権弾圧が注目を集めている。政治的にも大きな動きとなっており、昨年の12月にはアメリカのジョー・バイデン大統領が「ウイグル強制労働防止法案」に署名し、同法が成立した。

しかし、こういった動きに対し、「ウイグルでの人権侵害の確たる証拠はないのだから、中国を批判するのはおかしい」と主張する方が少なくない。

だが、これは中国が「情報統制国家」であるという事実を全く無視した暴論である。

天安門事件の検索すらできない国と、情報が自由に行き来する民主主義国家を比較することなどできない。

だいたい証拠が無ければ批判できないのであれば、情報統制国家があらゆる証拠を消し去ってしまえば、どんな人権侵害であってもお咎めなしである。ナチスによるホロコーストにしても、その情報をナチスの高官ですら知らない者がいたという話もあるくらいで、大掛かりな人権侵害であってもその証拠が外に漏れ出さないことはある。

こういった場合、その国で人権がどのように扱われているかを見て、その危険性を推測するしかないが、中国が人権を大切にする国であるという証拠などあるだろうか?

むしろ逆の例ばかりが思い浮かぶ。先日も北京で在中国日本大使館職員を中国当局が拘束するという、大事件が起こった。明確なウィーン条約違反であり、外務省は中国に謝罪と再発防止を求めたが、中国側は日本の大使館職員が「中国で身分に適合しない活動に従事していた」として再発防止を逆に求めるという厚顔無恥ぶりであった。

こういった国に対して、「証拠の有無」に関わらずに警戒することなど、むしろ当たり前のことである。


エビデンスを大切にするというのは当たり前かつ重要なことであり、「差別」とは無縁のものとも言える。だが、その重要性ゆえに「エビデンスを重視している集団(もしくは自分ではそうだと思っている集団)」が「エビデンスを軽視している集団」に対して抱く優越感は強烈なものであり、そのことで判断を誤るというのは、差別の構造に非常に似ていると思われる。

エビデンスを重視するのはいいが、そのときに「優越感」を感じているとすれば、自分が足を踏み外してしまっている可能性に留意する必要があると考える。


400字詰め原稿用紙にして10枚以上の長文を読んでいただき、どうもありがとうございました。

ではまたお会いしましょう。

エルクでした🙇‍♂️

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