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世界の終わり #2-15 ギフト
*
掛橋は扉の前にいる。ルルカをはじめとする五体のグールが入った、四番目の檻の中へ通じる金属製の扉の前に。
山岡から聞いた話のとおり、檻の扉は施錠されていなかった。
掛橋は歩を進めて、扉をわずかに開いて中を覗いた。細く開いた扉の向こうに、背を向けて横になっているルルカの姿があった。
「――ルルカ?」
扉を開放し、掛橋は呼びかける。
振り向いたルルカは、胸元から腰にかけて、臭い立つような赤黒い血液をべったりと貼りつけていた。
両目を見開いて、掛橋はその場に立ちすくむ。
ぴちゃり、とルルカの足元で、濁った雨水が飛沫をあげた。
「羽鳥が慌てた様子で駆けて行きましたが、なにか問題でも起こったのですか?」
両腕で抱えた長毛の白猫を、赤ん坊をあやすように右へ左へ優しく揺らしながら、羽鳥夫人は不安げな表情で尋ねた。
「えぇ、少々――ほかの団体との間で、困った問題が起こってしまいまして」
言葉を濁しつつ、掛橋は夫人と並んで歩く。
事件の内容を話すべきか迷ったが、まだ早すぎるように思い、夫人が抱く猫へ目を向けて話題をそちらへと誘導した。
「この子が噂に聞いていたネコちゃんですか。子猫と思っていましたが、ずいぶん大きいんですね。つけているリードは、逃走防止用ですか」
「そうですよ」と夫人。「元気のいい子で、落ち着きがなくって。それに、そこらでネズミなんかを捕まえてきたら問題ですしね」
「ネズミ?」
「疫病に感染したネズミを、お礼としてもってこられたら、大変でしょう? だからリードで繋いでいるの」
「……お礼、とは?」
「聞いたことありません? 猫の、お礼の話」
掛橋は歩を進めた。
異臭で満ちた檻の中へ、狭い歩幅ながらもしっかりとした足取りで一歩一歩、前へと足を踏みだした。
緩慢な動作で立ちあがるルルカと向きあい、耳へ届く濁った呻き声を聞きながら檻の中を進んだ。
気づけばほかのグールたちも身体を起こし、感情の失せた目で掛橋を見つめていた。
「――ルルカ」声にだして気がついた。掛橋は震えていた。
足をとめて、両手を前に差しだす。
掛橋が歩みをとめたのと同時に、ぎこちない歩調でルルカが歩み寄り、両者の距離が縮まった。
「なぁ……ルルカ」
掛橋の行動を真似るように、ルルカも立ちどまって両手を前へ差しだす。互いの指と指が触れ、やがて手を――手のひらを。ルルカは両の手で、掛橋の右の手のひらを包みこんだ。
ルルカは黄色く濁った大きな瞳で、触れあった手を不思議そうに眺める。
掛橋もまたルルカと同じく、繋がった手を無言で見つめた。
冷たい指だった。
しっとりと濡れていた。
風がやみ、周囲の音が消えた。
しばし、時がとまったかのようだった。
「飼い猫はね、自分をお世話してくれている大事な主へ、捕獲した獲物を差しだすのよ。理由は諸説あるようだけど、わたしは日頃のお礼だと思うの。いつもありがとうって、そういう気持ちで差しだすのじゃないかしら」
猫の頭を撫でながら、羽鳥夫人は囁くように告げた。
雲が太陽を隠し、
眼前の景色が僅かに彩度を失う。
一陣の風が吹いた。
夫人に抱かれた猫が、嫌がるようにして腕の中で体をくねらせる。
掛橋は立ちどまって振り返ると、木々に覆われている見学路の先を見つめた。
すぐさま視線を水平移動し、〈ボックスA〉の正面に並んでいる扉を眺める。
掛橋が暮らす部屋の扉の横にかかっている、先ほど脱いだばかりの安全ベストの蛍光色がやけに目立っていて、否が応でも目についた。
「どうされました、掛橋さん?」夫人が問う。
「申しわけございません」夫人へ向き直った掛橋は、唇を噛み締めて浅い瞬きを二度繰り返すと――突然、いまにも泣きだしそうな表情を浮かべて深々と頭をたれた。「わたしには、どうしてもたしかめておかねばならないことがあります」
雲が厚みを増し、周囲の彩度がさらに失われていく。
「そう――」
なにも訊かず、なにも語らず、ただ両目を細めて優しく微笑んだ夫人は、無言で掛橋の背を押した。
「ありがとうございます。本当に――申しわけございません」
何度も何度も頭をさげながら、掛橋は薄暗い見学路へと駆けだしていった。
通路の先にある、小獣舎を目指して。
右手を包んでいるルルカの手へ、左の手のひらをのせる。
掛橋は微笑み、ルルカの名を呼んだ。
檻の中にいるほかのグールたちもルルカと同様、掛橋を襲うような素振りはみせなかった。
それぞれがそれぞれのお気に入りの場所で、感情の失せた目で掛橋を見つめていた。
「きみらにとって、わたしはどのような存在なんだ?」
左手を離し、ルルカの首筋へ向けて、ゆっくりと差しだす。
ルルカは目で追っていた。掛橋の手の動きを。
やがて左手の指の先がルルカの耳に触れた。
ルルカはまだ見つめている。掛橋の左の手を。
油でべたついた己の髪が絡みついている掛橋の左手を、じっと見つめている。
擦り傷だらけの指輪がはめられている、左手を。
遠くでクラクションが鳴った。
コンクリートで覆われた檻の中は冷たく、鼻をつく獣のような臭いが充満していた。
掛橋は口角をあげて、はじめて触れるルルカの肌を、その感触を、指の腹で撫でるようにしてたしかめた。
僅かな振動が指へと伝わってくる。
ゴロゴロと耳に届いた微かな音は、ルルカの喉の奥で鳴っているように思えた。
——第二章『ギフト』了
引用・参考資料 敬称略
『ゾンビ (1978)』
ジョージ・A・ロメロ監督作品
『ショーン・オブ・ザ・デッド』
エドガー・ライト監督作品