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善き羊飼いの教会 #3-1 水曜日

〈樫緒科学捜査研究所〉


     * * *

「くそッ、嘘だろッ!」
 スルガは悪態をつき、ボサボサの髪を掻きむしりながらソファから立ちあがった。
 目やにのついた目頭をこすりつつ、自身のデスクに載ったスマホを手に取って不在着信を確認すると、柊から二回、金子警部補からも二回電話がかかってきていた。現在の時刻を確認する。午前十一時十五分。
「あぁ、ちきしょうッ。ったく……参ったな」
 昨夜はガールズバーの〈DORMOUSE〉でのんだあと、〈てらだや〉へ足を運んだ。〈てらだや〉では、当日シフトに入っていなかった中元と里田というふたりのバイト生がわざわざ店にきてくれて、スルガと同席し、柿本について多くを語ってくれたおかげで有益な情報を多く入手することができた。話が長引いて帰りが遅くなったのは、中元と里田が大量のアルコールを摂取したからだった――もちろん、スルガの金で。
 店をでて、研究所へ着いた時間は憶えていない。研究所に泊まることはままあったが、二夜連続ははじめてのことである。
 不在着信の表示を眺め、どちらからかけようかしばし悩むも、結局どちらにもかけずデスクの上へスマホを置いて、研究所内を歩き回る。
 ラボで分析の続きをしようと考えていたものの、コーヒーを飲んでソファに腰をおろしたところで記憶が途絶えている。スルガは作業台に載ったコーヒーカップを手に取り、半分ほど残っていた中身を一気に飲み干した。胃に落ちていく液体の感覚で脳が刺激される。爪を立ててつむじのあたりを掻きつつトイレへ向かう。酔いは醒めており、頭痛もなかったが、口内からもれる甘く酒臭い粘着きが顔にまとわりつくようで不快だった。
 洗面台で顔を洗い、口を濯ぐ。鏡に映っている姿は病みあがりのようにやつれていた。
「焦るな。落ち着け。落ち着こう……たのむから落ち着いてくれ」
 ポケットに手を入れて、ジッポを模したピルケースを取りだす。一錠を口の中へ。手のひらで水をすくって錠剤を胃に送りこむ。濡れた手で頬を叩いて鏡を覗きこむと、眉間に深いしわを寄せた男に睨み返された。額を摩ってゆっくり息を吐きだし、しわが消え去るまで静かに吐き続け、
「大丈夫だ。大丈夫――」胸に手をあてて、声をのせずに呟いた。
 飲んだ錠剤は効き目が穏やかな抗不安薬で、前職を辞めたときから服用している。服用後すぐに効果があらわれる薬ではないが、カウントダウンを終えて目を開けたスルガの表情は和らぎ、眉間に寄っていたしわは消えていた。流し続けていた水をとめて、ペーパータオルで顔と手を拭く。拭きながら目を閉じたスルガは、二〇から〇まで頭の中で数字をカウントダウンした。
「大丈夫」
 予定どおりにことが進められないと冷静さを欠いて、言動がきつくなってしまう――気がつけば形成されていた負の性格のせいでスルガは周囲に厳しくあたり、様々なトラブルを起こしてきた。退職して、服用をはじめてから他者にあたるようなことはなくなったが、自身の性格やものの考えかたはさほど改善できていない。
 こだわりが強い。自身の思い描くとおりにことを進めなければ気がすまなくて、一度手をつけた物事を途中でやめられない。やめられなくなる。明確な解答を見つけださない限り〝終わり〟であると認めることができない。ただし、まったくもって盲目になるというわけではなく、優先順位を気にかけるだけの心的余裕は、服用によってもてるようになった。
「……大丈夫」
 再び蛇口をひねって水を飲んだ。口を濯ぎ、何度も濯いだのちに歯を磨き、再度でたらめに水をがぶ飲みすると、表面を包んでいた悪しきものが剥がれたように感じられるが、すぐに重力に引かれる身体の重みを感じて溜め息がもれる。ただし悪態はでないし、舌打ちもしない。スルガはかぶりを振り、洗面台から離れた。
「寝すごしちまったのは、仕様がない」ひとりごちて背筋を伸ばし、大きく息を吸いこんで頬を叩く。「やるべきことから片づけよう」
 昨夜の時点では、朝イチに文倉家を訪れて、ALSで検査するつもりでいた。綺麗に拭き取られたリビングや廊下の床から血液の反応がでれば、立てていた仮説が現実味を帯びてくる――筒鳥大学の学生三人は廃屋の中で何者かに襲われたのではないかという仮説が。
 ラボへ移動したスルガは作業台の前に立ち、台に載っている品々を端へ退けた。
 分析はあと回し。まずはてらだやで聞いた話を文字として書きだそうと考えて、クシャクシャになったメモ紙をポケットから取りだし、作業台の上に並べた。
 元は〈てらだや〉に置かれていたアンケート用紙だった紙の裏面には、癖の強い字で、中元と里田から話を聞きながらメモした〝人名〟と〝地名〟が記されている。ラボの隅に置かれた脚つきタイプのホワイトボードの前へ移動して、マーカーを手に取る。柿本、とボードの中心付近に記し、柿本の名を囲むように、中元、里田、横谷、白井、大賀、と〈てらだや〉で話を聞いた店員の名前を記して線で結ぶ。
 店員五人ともが二十歳前後の男子学生で、みな揃って柿本を嫌っていた。
 口が悪い。暴力的。貸した金を返さない。年下へ威張り散らし、年上には媚び諂う――嫌う理由は様々だったが、仕事面では頼れる存在だったらしく、失踪を心配する声が皆無だったわけではない。
『柿本さんがいなくなって喜んでいる人もいるのでは?』
 マーカーを走らせつつ、スルガは〈てらだや〉での会話を回想した。
『被害者と呼べる人が大勢いるようですからね。いかがです?』
『喜んでなんかいませんよ』問いに答えたのは中元だった。『週末のクソ忙しいときに無断欠勤されて、迷惑被ってるんすから。柿本さんは土日は必ずでていて、というか、ほぼ毎日でてますけどね。プライベートでは関わりたくないけど、柿本さんには店にきてもらわなきゃ困るんです。あの人、ホールも厨房もこなせますから』
『でしたら、週末までには戻ってきてくれないと困りますね?』
『そういった面ではみんな心配して、不安に思ってますよ、バイト全員』
 中元の言葉に偽りはなかったとスルガは思っている。
 嫌っていたと同時に頼りにしていた柿本の失踪によって、〈てらだや〉の店員が不安を抱き、心配しているというのは事実であろう。同情する一方で、ほぼ毎日働いていた柿本の生活パターンを考えると、ともに働く店員たちより密に接していた者はいないように思えるので、柿本に恨みを抱いていたのは、〈てらだや〉の店員をおいてほかにいないとの考えを捨てきれない。
 中元、里田、横谷、白井、大賀。
 スルガはホワイトボードに記した五人の名前を左から順々に見て、推理を働かせた。
 ――この中の誰かが柿本に危害を加えて、どこかへ連れ去った可能性はないだろうか。疑いだせばきりがないが、五人ともがスルガに協力的で、知り得る情報を包み隠さず話してくれたという印象がある。嫌っていたことも含めて。話せることはすべて、話してくれたような気がしている。それでもあえて名前を挙げるとすれば、横谷と里田のふたりが真っ先に思いつく。横谷は話すときにみせていた険しい表情から。里田はエピソードを語るとき嬉々としていたものの、負わされた傷のことを思うと、胸中は穏やかでないだろう。
 スルガは再び回想する。
 昨夜の〈てらだや〉での会話を。
『傷って、左眉の? 左眉の端にある、その傷ですか?』
 スルガが問うと、里田は飲酒の影響でやや充血している目を線のように細めて、声にだして笑い、指先で傷を撫でた。
『そうです。柿本につけられたんですよ、この傷。あいつが馬鹿な行動をとったせいで、こんな目に。もちろん治療費は払わせましたけどね』
『いつの話ですか』
『夏です。夏に、バイトのみんなで海に行ったんです。小砂浜っていう、明蝶海岸の先にある小さな浜なんですけど、そのとき、そばにあった空き家に忍びこみましてね。柿本と、おれで。中元もいたかな。最初は慎重に、っていうか、ビビリながら幽霊屋敷探検みたいなことをやってたんですけど、どこからかゴルフクラブを見つけてきた柿本がふざけて、家の中でクラブを振り回しはじめましてね。で、この傷ですよ。わざとあてたんじゃないって理解してますけど、文句をいおうにも出血が凄くて、そんでおれ、怯んじゃって。ははははは』
 このエピソードを聞くなり、スルガは文倉家のことを思いだした。先週の金曜日に、なぜ柿本らは文倉家を訪ねたのか。家の中でどのような行動をとったのか――リビングに置かれた棚や壁の一部が破壊されていたのは、柿本のとった行動に因るものだったのかもしれない。とすれば昨日の推理は無に帰し、どうして床が掃除されていたのか、三人はどこへ姿を消したのか見当すらつかなくなってしまう。
 スルガはかぶりを振ってホワイトボードから離れ、作業台へと移動した。
 しばし宙を見つめて考えに耽(ふけ)る。ややあってメモの一枚を手に取り、乱れた字で記されているふたつの名前を、声にだして読みあげた。
 志免(しめ)。
 ウィルソン。
 復唱しながらホワイトボードの前へ戻り、空いているスペースにふたりの名前を書く。志免という人物は柿本と同じ筒鳥大学の学生で、柿本を訪ねて何度か〈てらだや〉へ来店したことがあるとのことだった。情報提供者は里田で、里田はウィルソンのことも知っていたが、両者については顔と名前を知っている程度らしく、詳しい話は聞けなかった。
「再度ウィルソンさんに連絡して、話を聞いてみるべきかな」
 スルガはひとりごちてウィルソンの名を丸で囲み、その横に東条と記して、ふたつの名前を線で結んだ。
「さて――」東条を中心とした相関図の作成に移る。柿本の場合は行動範囲が狭く、生活パターンが限られていたので相関図はシンプルにまとまったが、交流の多い東条のほうは簡単にはいかないと容易に想像つく。「つるんでいるメンバーの名前を、柊さんが聞いてきていたけど……あのメモ、どこに置いたかな」
 記憶を辿ろうとしたところでスマホの着信音が研究所内に鳴り響いた。
 デスクへ移動し、スマホを手に取る。
 発信者を確認すると、金子警部補からだった。
『どこにいるんだ? 何度も電話したんだぞ』
 電話にでるなり、叱るような口調で問われた。不在着信は二件だったので〝何度も〟というほどではないでしょう――との反論が喉元まででかかったが、穏やかな口調で問いに答える。
「研究所に決まってるじゃないですか。金子さんこそ、どこにいるんです? 昼前にみえる約束ですが」
『もしかして、まだ知らないのか』
「はい?」
『研究所で働いてる、ほら、あの子のお姉さんの――』
「柊ですか」
『そうだ。柊。柊シュリだったか? 彼女はいま筒鳥署にいる。なにも聞いてないのか』
「……筒鳥署に?」スルガは眉を寄せて、耳のうしろを掻いた。「どうして柊が筒鳥署にいるんです?」 
『事情聴取だよ。佐倉(さくら)めぐみという名の女性に心あたりは?』
「えぇ、知ってます。佐倉さんがなにか?」
『死体で見つかった。ほどなく帳場(ちょうば)が立つだろう。柊シュリは事件の重要参考人だ』

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