善き羊飼いの教会 #2-5 火曜日
〈警固町・路上〉
* * *
スルガは顔をあげて歩道を見た。茶色いジャケットを羽織ったパンツスーツ姿の女性が鞄を抱えて、駆けてくるのが目にとまった。手を振られる。小さく振って返す。女性は助手席側の扉を勢いよく開いて、車内へ入ってきた。
「ありがとうございます、スルガさん。研究所に向かおうとしていたところだったので、助かりました。よかったんですか、迎えにきていただいて」
「通り道だったからね。それよりもどうだった? オリバー・ジャクソンさんだっけ。彼から役に立ちそうな話は聞けた?」
スルガが問うと、助手席に乗った女性――柊は、シートベルトを握りしめたまま固まって両目を大きく見開き、スルガをまじまじと見つめた。
「ひょっとしてスルガさん、家に帰ってないんですか」
「帰ったよ。ハムスターの様子を見に。主食の餌を食べてくれなかったから野菜を切って、種もあげてと、それなりに苦労したんだから」
「野菜に種ですか」
「それと掃除も。玄関に置いているのに部屋中が臭くなるのはどうしてだろうね。もしやケージから抜けだして粗相してるんじゃないかと思って、ALSで調べてみたら……や、いいか、この話は。オチがあるわけでもないし」
「はあ」
話にでてきたALSとは、科学捜査用ライトのこと。指紋や血液の検出に用いられるALSは、ランプヘッドを交換して波長を変えることによって尿や唾液なども検出可能だ。
「着替えなかったんですか。昨日と同じ服ですよね?」
「家にいたのは三十分、いやもっと短かったかな。朝の早い時間に例の廃屋を調べておこうと思って、すぐにでかけたんだ」
「朝? 朝の早い時間? え、だって、昨日は柿本さんのバイト先に行って……ひょっとしてあのあと、研究所に戻って仕事したんです?」
「そう。報告書作成とデータベース登録をしたよ。昨日は鈴鹿さんの依頼に多くの時間を使ってしまったからね。それよりも、悪かったね、オリバー・ジャクソンさんの件、柊さんひとりに任せてしまって」
「ジャクソンじゃなくて、ウィルソンです」
「ウィルソン? オリバー・ウィルソンだったっけ。任せて悪かったね」
「構いませんよ。わたしが行くといったんですから。それよりも朝から幽霊屋敷にひとりで行くなんて……まさかとは思いますけど、建物の中に入っていたりしませんよね」
「入ったよ」
「入ったんですか? 昨日、きちんとした手続きを踏んだうえで改めて出直すっていってたじゃないですか!」
「柿本さんたち三人の身を案じて、調べてみることを優先したんだよ。それよりも聴取の成果は?」
「ひょっとして後部座席に載っている大きな鍋、幽霊屋敷の中から勝手にもってきたんです? 駄目ですよ。現場から資料を勝手にもってきたら違法収集になるんですよね? 警察の捜査でも、もちだしが許されているのは鑑識の人だけなんでしょう?」
「もちかえらなければ調べられないじゃない」
「それはそうですけど」柊は眉尻を下げて振り返り、後部座席に積まれた荷物をチェックしはじめる。「結構な点数じゃないですか」
「ばれる前にきちんと返すつもりでいるから。心配無用だよ」
「心配無用って……」
「大丈夫。というか、大丈夫なように上手くもっていくからさ」
「あの箱、なんです? それに大きな鍋も」
「あとで説明するよ。一緒に積んでいるダンボール箱の中身の説明もね。それで? オリバー・ジャクソンさんから、柿本さんに関する話は聞けたの?」
「ウィルソンです」
「ウィルソン? オリバー・ウィルソンか」
「ウィルソンさんから、柿本さんの話はあまり聞けなかったんですが……東条さんの話はたくさん聞けました。聞けはしたんですけど……」
「ですけど、なに?」
「えぇっと、その――」柊は歯切れが悪く、続きを語るまでに結構な時間を要した。「東条さんは頻繁にウィルソンさんを合コンに誘っていたようなんですけど、合コンでのエピソードを聞いてみると、ウィルソンさんは利用されているというか、女の子を集めるためのダシとして使われていたようにしか思えなくなってしまって」
「ダシに使われるほど、人を惹きつける魅力をもっているんだ?」
「あたりが柔らかくてみんなに好かれる感じですし、日本語も上手ですからね。あ、そうだ、これ」柊は鞄の中に手を入れて、オレンジ色の表紙のノートを取りだした。「ウィルソンさんは、東条さんと雛岡さん、それと、東条さんのお姉さんが利用しているツイッターのIDを知っていたので、教えてもらいました。姉弟でフォローしあっているので、ツイッターには本音を書いていないかもしれませんが、それぞれの〝人となり〟はわかるかと思いまして」
「うん。大いに役立つだろうよ。それにしても柿本くんといい、東条くんといい、あまり褒められるような人間じゃないみたいだね。もしかすると行方不明になっているのは自らが招いた結果だったのかもしれないな。ま、そのあたりはツイートを細かくチェックすれば判明するかもね。さて、調査すべきことがさらに増えたし、時間はいくらあっても足りないよ」スルガはサイドブレーキを解除して車を発進させ、発進させるなり赤信号で停車した。苛立たしげにこめかみあたりを掻き、ふぅと声にだして息を吐きだす。「ところで、柊さんの携帯に、所長かイチイさんか、黄山さんからでもいいけど、連絡は入ってない?」
「所長が研究所にかけてきた電話で話したのが最後です。そのあとは一度も」
「そうか……イチイさんに何度も電話しているんだけど、繋がらなくてね。得た情報と現状とを、一刻も早く伝えたいのに」
「話しちゃうんです? イチイさんに話してしまっていいんですか。そのための調査続行なんですよね?」
「そのため? そのためって?」
「鈴鹿さんの依頼を引き受けて、調査続行する理由ですよ。調査の主導権を握っているのはスルガさんじゃないですか。スルガさんが謎解きしないんですか」
「え? ぼく? ぼくが謎解きって、イチイさんの代わりにってこと? ははは。そりゃあ、まあ、柿本さんたちの行方を突きとめることができればベストだけど、イチイさんのような安楽椅子探偵にはなれないよ。え、なに? ひょっとしてイチイさんを出し抜こうと考えて、ぼくが独自に調査続行を決めたと思ってたの? 調査を続けているのは、できる限り依頼人の力になるようにってイチイさんからいわれたからだよ。そういわれたからには全力でことにあたらなきゃでしょ。ま、このことが所長にばれたらなにをいわれるか考えたくもないけどさ。主導権に関していえば、科捜研が握って当然。警察の捜査だってそうだよ。科学捜査での分析と結果が捜査方針を決めるといっても過言ではないからね。科学捜査官が如何(いか)に重要な役割を担っているかは、柊さんもよく知っているだろう?」
「それは……えぇ」柊は視線をそらしてうなじのあたりを掻いた。「てっきりスルガさんは……いえ、なんでもないです。すみません、変なことをいって」柊は正面を向く。信号が青に変わった。身体に心地よいGがかかった。「……ところで、幽霊屋敷のほうはどうだったんですか。危険ではなかったんですか」
「昨日の尾行者のことを気にしているのなら、杞憂だよ。尾行の件に関してはひとつの仮説をたててみたんだけど、ま、それはある程度、調べがついてから話そうかな。廃屋ではたくさんの写真を撮ったし、気になる箇所のサンプルもいくつかとってきたから、分析の手伝いを頼むよ。ひょっとすると大変な事実がわかるかもしれない。そうなると、以降の調査は金子さんに丸投げしなきゃいけなくなるだろうけどね」
「金子さんに? それって――」不安に満ちた目で柊が尋ねる。
スルガは進行方向を見つめたまま、冷静な口調で続けた。
「考え得る最悪の事態が発生している可能性がなくはないが、判断は調査結果がでてからだ。まずはラボで調査分析を進めよう」
「は、はい」
「そんなに緊張しないで。まだはっきりとわかってはいないんだから。廃屋に関しては隣人から話を聞くことができたので、いまのうちに伝えておこうかな。かつて、あの廃屋にどのような家族が住んでいたのか。どうして無人になってしまったのかを」
「お願いします」
樫緒科学捜査研究所への道のりで、スルガは知り得た情報を簡潔に語ってきかせた。
柊はノートの新しいページを開いて、気になったワードを書き記していった。一家心中。治水ダム。教義――物事の真相が少しずつ明らかになり、輪郭の曖昧な仮説が淘汰されていく一方で、新たに生まれる謎もある。柊の中で些細に思えていた事柄や、頭の隅に追いやっていたふとした物事が思考の主軸へ移動することも少なくなかった。
研究所が近づく。
欅がつくりだす木漏れ日で包まれた通りでノートを閉じ、鞄の中へと柊はしまう。
「いま、一番、スルガさんが疑問に思っていることはなんですか」
「一番? 一番といわれても。たくさんありすぎて、どこから手をつけるべきか迷うほどだからなあ……意外に、鈴鹿さんともう一度会って詳しく話を聞いてみると、あらゆる事柄がドミノ式に判明したりするかもね」
「鈴鹿さんは真実を語っていないって、いいましたよね」
「さほど親しくない友人の行方を探すために、積極的に動き回っているのはなぜなのか、警察を訪ねる必要はあったのか、そんな彼のあとをタクシーで尾行していたのは何者なのか――尾行といえば、いなくなった柿本さんたちはツイッターで実況をしていたんだから、リアルタイムで見ていた何者かが、凶器を手に、彼らのあとを追って廃屋に行った可能性も――」
「ちょ、ちょっと、やめてください! また殺人犯の話ですか? 幽霊屋敷の住人は治水ダムに身投げしていたってさっき教えてくれたばかりじゃないですか」
「ははは。ごめん。殺人犯の案は却下だ。お昼を奢るから、そんなに怒らないでよ」
車はウインカーを点滅させながら減速し、通りに面したコンビニの駐車場へ入った。
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