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【新国立劇場「ウィリアム・テル」】舞台稽古見学会でオペラを観てきました。



2024年11月18日(月曜日)
新国立劇場で「ウィリアム・テル」の舞台稽古見学会を鑑賞しました。

2日連続で大規模な音楽に浸る機会に恵まれました。


ゲネプロ

今日は、ご縁があって、新国立劇場の「ウィリアム・テル」のGPを見せていただきました。
GPとは、ゲネプロ、ドイツ語のゲネラルプローベの略で、最終リハーサル、のことです。
まだ本当の完成ではないけれど、衣装も装置も舞台化粧も本番そのままの状態にして、通してみる、というもの。

今回の演目は、原語(フランス語)で歌われる「ウィリアム・テル」の全曲、
新国立劇場では今回が初の上演、新制作の舞台です。

開演前のスピーチによると、このオペラはあまりにも長大な作品であるがゆえに、日本での原語・舞台上演は今回が初めてで、
劇場で、ライブで聴いたことがある人がこの日本に何人いますか、という状況
らしく、その稀有な体験者に、わたしもカウントされちゃったみたいなのでした。

勇壮な「序曲」が有名ですが、実は、あの名曲、序曲の後半の一部分なのです。

序曲の前半も長いので、予想通り幕に映像が投射されて、
オペラの世界が始まりました。
もう、最近の舞台では必ずと言っていいほど映像が使われていて、
センス合戦の様相を示していますが、今回の映像は普通に綺麗でした。



舞台

舞台に立っている歌手は50人くらいでしょうか、助演者とダンサーも混ぜると60人くらいでしょうか。宝塚のひと組よりもだいぶ少ないけれど、体格と性別にバラエティがあるので、すごく大勢だな、という感じがしました。
合唱団が村人たち役として、割と長時間舞台に登場しているので、ビジュアル的な情報量は多いです。

舞台が狭くて八百屋になっていて、中型の台が何台か斜めに配置されているので、人の出入りや動線がごちゃごちゃした印象でした。
森の奥をイメージしているようでした。

八百屋舞台というのは舞台の板が斜面になっているのですが、
その角度がキツそうでした。

吊りものが邪魔になって、合唱の歌手が次の位置に行きづらそうなところ、
別の吊りものが小道具に引っかかってブラブラ揺れるところ、

などを、目撃しました。

レアな体験にワクワクしたわたしは、揚げ足をとるのが好きな困ったヤツ。


全体的に詰まった感じがしましたが、
特に、13人いたダンサーが窮屈そうに踊っていたのが気になりました。

踊りに適した平らな部分は舞台の前方の真ん中へんだけだったので、
幅広いジュテなどはできず、スケール感やスピード感が不足気味だった。

群衆のサバキかたについては宝塚のレベルが非常に高いので、
目がそっちに慣れすぎているのだと思いますが、
パリ好みのグラントペラらしいダンスシーンなのに、
せっかくのストーリーダンスなのに、
手狭な舞台でチョコチョコ展開するのはもったいなかったな。

プロンプターのボックスの近くで踊っていたせいで、
せっかくのポワントが隠れていたのも惜しかったな。



音楽

音楽は、ロッシーニらしい絢爛かつ華やかな展開で、楽しかったです。

この作曲家の「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」「ランスへの旅」などを
思い出させる技巧たっぷりの歌唱も盛りだくさんで、大満足でした。
オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。
前日のマーラー「夜の歌」に引き続く大作でも、よく歌っていました。別チームだったかもしれないけど、ピットの中の顔までは見えませんでした。

ロッシーニの人物像については、19世紀ヨーロッパ社交界にひときわセンセーショナルかつミステリアスな光沢を放つ存在、という印象を持っています。

宝塚の雪組公演
『fff −フォルティッシッシモ−』作・演出/上田久美子(2021年)

で、天月翼さんが演じたイタリアン伊達男のイメージに引っ張られていますが。

ロッシーニってば、
こんなヤバい作品を1829年にパリで初演させちゃったんだ!

と、実は、手に汗を握った。



物語

物語をざっくり把握します。

敵は、不当に侵略してきて圧政で支配する、邪悪で凶悪で凶暴な独裁者。
その支配のために塗炭の苦しみを余儀なくされている民衆が、
ついに怒り極まって叛旗を翻し、
ゲリラ戦で勝利を獲得する、

というもの。

この戦いの中心人物的な存在が、ウィリアム・テル

オペラの原語フランス語で、ギョーム・テル
ロッシーニの母国語イタリア語で、グリエルモ・テル

例の、息子の頭の上にリンゴを載せてそれを手練の弓で撃ち抜くエピソードを
第3幕のクライマックスにもってきて、しかもそこから大暗転して、
第4幕のカタストロフィへとつなげていきます。



演出

今日の演出で採用されていた衣装は、20世紀の風味が強かったです。
そこに演出家の意図が色濃く出ていると思われました。


21世紀が4分の1になろうといういま、
戦争が終わらない世界でこの作品が上演されるのを観ているわたし。
腰のすわりの悪い不気味な感じを止められませんでした。

人権を奪われて虐げられている人々の姿に、
どうしても、テレビの画面で毎日のように目にする戦争の映像が重なる。

圧政者側の衣装は、例のドイツ風のデザインでした。
ハーケンクロイツこそついていないけど、振り付けは明らかにアレだった。

20世紀の絶対悪を表象するデザインとして、
この軍服は、もはやクリシェ(紋切り型の決まり文句)になっているのね、

と、咄嗟に感じてしまった自分に驚きました。

これを、私は、クリシェだと感じてしまったのか・・・。


そして、さらに、軍服よりも、濃紺の背広姿の方が、
リアルな敵を感じさせるのではないか
、と、思ってしまいました。

ちなみにウィリアム・テルの衣装のコートの下がTシャツだったりしたせいか、
短髪に顎髭を蓄えた、胸板の厚い姿のせいなのか、
どことなく、ゼ・・・・を連想させないでもないのです。

      ↑伏せ字にする必要はないんだけど、敢えて伏せる。
       コンテクストを際立たせる小細工だよ。

でも、演出家が、もしくは公演主催者側が、

敢えてクリシェを選んだのだとしたら、話は違います。

何がそうさせたのか。
何に配慮し、斟酌し、あるいは忖度したのか。

いったい、わたしたちはどんな時代に生きているんだろう、
と、思う瞬間が続きました。


時代背景とか

1829年のパリで初演されたこの作品は、ロッシーニの最後のオペラ作品です。

イタリアではリソルジメント(イタリア統一運動)への影響を鑑みて、
なかなか上演できなかったというエピソードが脳裏に浮かびました。

オペラを聴きながら、小ネタ、トリビア、雑学の類が、
整理されないままに、記憶の断片として次々と浮かび上がってきます。

思いつくままを書いていると、
感想なんだか与太話なんだかわからなくなってきます。

この作品は、おそらく、時代の急所、秘孔を、激しく衝いているのです。

体制批判ギリギリの作品だと認識した当時の暗黒社会にマークされ、
身の危険を感じるに至ったので、
ロッシーニはオペラ作家としての活動をそれきりやめて、
そのあとの人生を、美食家のディレッタントとして生きた、

という伝説が、わたしの脳内にプロットされています。


「牛フィレ肉のロッシーニ風」というフランス料理のご馳走の名前は、
美食家である彼の好みからきている、というじゃありませんか。

典拠を提示できないのは本当に申し訳ないのだけれど。


それほどまでに、ヤバい作品を、

今、このヤバい世界で、目撃する、というわけです。



やっぱり、もう少し勉強しよう。

もっと解像度を上げてから、本公演を見に行こうと思います。



ゲネプロ、5時間だぞ


14時開演、18時45分ころ終演。

休憩が2回ありましたが、さすがにお尻が四角くなりました。

ゲネプロなので、休憩時間に利用するホワイエの売店の営業がなく、
持参のペットボトルで水分補給、のど飴で糖分補給をしました。
ストイックな感じで、楽しかった。


ゲネプロなので、演奏中に関係者が客席内を立ち歩く、
オーケストラピットの中で指示するような声がよく聞こえる、
指揮棒を振っている指揮者に後ろから誰かが話しかける、
スタッフが手元のライトを点灯する、などの、緊迫した感じが所々にあって、
面白かったです。


カーテンコールの並びは、あれが初めてだったのかな、
演出助手らしき人が合唱団を追い回したりして、ニヤリと微笑めました。
ゲネプロでバミるんですね、でも、本番ではちゃんとやっちゃうんですね。
さすがプロフェッショナル。


ギョーム・テルを歌ったバリトン歌手、ブラヴォー!
アルノルドを歌ったテノール歌手、ブラヴィッシモ!素晴らしかった。
ギョームの妻、ギョームの息子も、ステキだった!

それと、第二幕冒頭の「狩人」、短い歌でしたが、とってもいい声でした!

ゲネプロなのに、フルヴォイスで歌い上げてくれてありがとうございました。


11月20日(水)に初日です。もう、本番が始まっていますね。


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