宝塚グランドロマン「ベルサイユのばら」 ーフェルゼン編ー 観劇の感想文です。
9月4日水曜日「ベルサイユのばら」宝塚雪組の公演を観てまいりました。まだ生々しい感想を、語る言葉を熟成させないままスピーディに投稿してみようと思い立ちました。画像は京成バラ園「ベルばらのテラス」でのスナップショットです。
1. 劇場で観ました
原作との齟齬が原因の複雑怪奇な思い。微妙に納得いかないオスカル様のセリフ。
謎要素をはらんだアントワネット様のセリフや行動。
思わず「この、トンチキ!」と毒づいたりもしたくなる、
フェルゼン、メルシー伯爵、ブイエ将軍の振舞い。
それらはみな、あくまでも以前の観劇の記憶による、古い録画や、大劇場公演配信視聴による予習の段階での反応なのであって、
ひとたび劇場で席についてしまえば、あの世界になすすべもなく一体化してしまい、血液中の成分がバランスを変えて、自分自身の輪郭すらあやふやになるような没入的な体験となってしまいます。
もちろん科学的なエビデンスに基づいた記述をしているわけではなく、感想を語るためにしっくりくる言葉を使っています。
台本に関してはやはりあれこれと気になるところがありましたが、そんなのを全部吹き飛ばしてしまうほどの、雪組のタカラジェンヌたちの熱量の高さが素晴らしくて、丸一日たった今でもぼうっとしています。
目の前で、同じ劇場の空間で、タカラジェンヌたちが情熱を迸らせながら息づいている、それを受け止めることで得られる幸せは、なかなか言葉では表現し尽くすことが難しいです。
私はいつもこの現象を、「宝塚は心の必須アミノ酸」と称しています。
2. オスカル様
伝説のオスカル様を演じた紫苑ゆうさんが熱血指導をしてくださったという噂を聞きました。
元々ベルばらが好きで大いに燃えていたという彩風咲奈さんを始め、雪組の生徒たちの情熱の炎を、ボウボウに燃え上がらせてくださったのでしょうね。
心の中で「シメさん、ありがとうございます」と叫んでいました。
1990年に観た、紫苑ゆうさんのオスカル様はご本人がオスカル様への強い思いを抱いていらして、それが舞台に結晶したかのように反映されていたと感じました。あの時の感動は今でも覚えています。大理石の彫像のような圧力のある美しさと、うちに秘める熱を帯びた気迫に満ちていて、息が詰まるほど最大級にのめり込んだ観劇体験でした。
2014年に観た、凰稀かなめさんのオスカル様も、ビジュアルの美しさの再現だけでなく、オスカル様としての生き様が「宝塚のオスカル」の枠組みの限界の外側にはっきりと反映されていた魂のこもった人物造形で、崇高なまでに美しかった。
観劇の間、どうしても気になってしまう「宝塚のオスカル」は、「本当は優しい夫に守られ子供達に囲まれた”女の幸せ”を求めるべきなのに、女のくせに軍服なんかを着込んでいきがっている偽物の存在」というスティグマを何人かの登場人物のセリフによって背負わされています。
オスカル様のアリア「愛の巡礼」の歌詞にも
「偽りの姿でいても この胸の女心を誰が知る」とあり、ムズムズします。
肉体は女性である男役のタカラジェンヌが演じる男装の麗人、という屈折した人物像であるからか、立ち方、振り向く角度や手の角度、そして声、そして肝心なクライマックスのシーンなどに、どうしてもオンナっぽい雰囲気が滲む。
おそらく、演出の意図が反映しているのではないかと思われます。
この点が、原作ファンである幼い私が1974年の初演の舞台をテレビでみた時からどうしても納得いかなかった要素なのですが、凰稀かなめさんは、果敢にもその「宝塚のオスカル」の型を外し、ひたむきに軍人として生きた「人間オスカル様」を、しっかりと筋を通して現出してくださったように、私には感じられました。
凰稀かなめさんがオスカル様を演じた時に、役代わりでアンドレを演じた緒月遠麻さんの作り上げたアンドレ像も、強く心に残っています。
お二人は同期で、生身のご本人同士がおそらく本当に火花を散らすような役作りを重ねて、原作の世界でカストルとポルックスのように共に生きていたオスカル様とアンドレを、舞台の上に表してくださったのだと感じています。オスカル編だったので、フェルゼン編では語られないエピソードが重ねられたこともオスカル様とアンドレの解像度が高かった原因だと思われます。
そして、今回の朝美絢さんの演じるオスカル様の美しさと言ったら、脳の、審美を司る中枢神経に直接針を刺し貫いて電流を通されたような感じでした。
3. アンドレ
(1) アンドレは縣千さんが演じた
一応、オスカル様のことを書きましたが、本当に正直に言うと、今回の観劇では、縣千さんが演じたアンドレにばかり視線が行ってしまい、アンドレが登場するシーンでは他の誰も目に入らないというとんでもない世界に没入しておりました。
アンドレ・グランディエ。オスカル様の乳母の孫でオスカル様の一つ年上。幼くして孤児になったためジャルジェ家に引き取られ、オスカル様の従者となり、一緒に育ってきた青年。
いつの間にか、当然必然的に、オスカル様に惹かれ、従者として、衛兵隊士の仲間として、そして最後には恋人として、オスカル様を支え、命をかけてオスカル様に尽くすアンドレ。
(2) フェルゼン編のアンドレ
今回の「ヅカばら」はフェルゼン編です。
アンドレは、フェルゼン編だと出番が少なくて、謎多き人物になってしまいます。その分、観客は様々な事情をよく知っているので、脳内は大忙しになります。
アンドレの立場から物語を説明すると、こうなります。
① 初登場シーンではベルナールに「オスカルにパリの様子を教えてやってくれ」
と頼んだりする。オスカル様を影で操るかのような謎の立ち位置。
② 次に登場すると、フランス退出直前でやけっぱちになっているフェルゼンから
「身分違いがなんだ!」と無責任にも焚き付けられて、目を白黒させる。
③ 舞台の上手から下手までを単独で歩きながら「白ばらのひと」を歌う。
眼の怪我から失明へ至る原作のエピソードがごっそり削除されているため、
「別の原因の怪我」で視力が損なわれて悩んでいるとセリフで説明しつつ、
オスカル様を守り抜くと誓う。
④ いきなりオスカル様の私室に呼ばれ、アンドレとしては急転直下の愛の成就。
⑤ 翌朝、オスカル様が衛兵隊にバスティーユ攻撃を指示する場面に遭遇。
「この戦闘が終わったら結婚式だ」と告げられ、舞い上がる。
⑥ その直後、激しい銃撃戦が始まり、アンドレ戦死。
④⑤⑥は、原作でもヅカバラでも名セリフに彩られたクライマックスです。
だがしかし、だからこそ、①②③④へと続く筋の無理矢理加減が、辛いのです。
特に、④は、ヅカばらでは絶対に外せない「今宵一夜」と呼ばれる名場面なのですが、フェルゼン編では、オスカル様とアンドレの積み重ねた時間がガッサリ省略されているために唐突感に満ち溢れています。
プルコワ、ホワイ、なぜだ、どうしてなんだ、お願いだからこんなことはやめてくれー!という原作ファンとしての心の叫びが、舞台上で繰り広げられる感動的なシーンに被さって、脳の中で渦巻く混沌とした観劇になってしまう、という体験を、今までに何度も繰り返してきたのでした。
明日は命の危険が伴う戦場に出る、そのタナトスの興奮の中で突然二人のエロスが爆発してしまった、と、読みとることが可能な展開は、オスカル様に対する冒涜としてどうしても許せない。
その結果として、本当に正直に言うと、フェルゼン編は、苦手なのでした。
(3) 「推しがアンドレ」のフェルゼン編
しかし、今回のアンドレからは④に至るまでの時間の深さが伝わってくるのです。
少年時代から、ながい時間をかけて、小さなエピソードを重ねながら、オスカル様のすぐ近くで生きてきたアンドレ・グランディエの生涯を、舞台で具体的に演じられていなくても、感じられるのです。
そこにいるアンドレが、どんなふうにオスカル様を眩しく見ていたのか、叶わない想いに焦がれながら、オスカル様がフェルゼンへ寄せる思いが膨らむ様子を身分の違いによる無力感に苛まれながら見守り、ジェローデルとの鞘当てに、同じ思いを持つアランとの衝突に、成長し、失敗し、抑えきれない思いを時々溢れさせてしまいながら、ただオスカル様を愛してきた、
そのアンドレの深い愛の歴史が、届いてくるのです。
だから、④の「今宵一夜」は、アンドレにとっては突然盛り上がってしまった激情の暴発では決してない、と、断言できるのです。
縣千さんが舞台の上に表現してくれたアンドレだからこそ、こう感じることができたのだと、心から思います。心から感謝します。
「フェルゼン編」ということなので、最初は完全に斜に構えていた私ですが、
宝塚歌劇団のアプリ「宝塚歌劇Pocket」の、公演初日に向けた意気込みを語る「キャストボイス」にこんなことが書いてあるのを読みました。
縣千さんの役にかける想いが電流のように伝わってきて、目が覚めました。もう、斜に構えてなんかしている場合ではないと、思い知りました。
8月11日に配信で観た時には、フレームアウトするアンドレの姿を追ってパソコンの画面の外に視線を泳がせてしまったというお笑い反応もあったものですが、
劇場で観ていれば、舞台にアンドレがいる限り、アンドレの姿を追いかけることができます。
目の前に美しすぎるオスカル様がいても、
群衆がいても、ブイエ将軍がいても、アランがいても衛兵隊がいても、
ロザリーとベルナールが登場しても、視野は狭窄してしまい、
視界に入るのはアンドレだけに絞られてしまうのです。
アンドレは、たとえ視力が損なわれていても戦場となるパリの街へ行く。
(観客の視野狭窄とは全くレベルが違う悲劇です)
それをオスカル様には隠し通し、ひたすらオスカル様の声を頼りに、
全身全霊でオスカル様を追う。
その姿に、もう涙。
アンドレ、アンドレ、なんてせつないの。なんていとしいの。
アンドレが橋の上で蜂の巣にされるシーンは、もう本当にたまらない。
今回、⑤が終わって一旦上手の袖に退場してから⑥のシーンに移行する時、髪が乱れたカツラにかえ、左手から大量に流血しているように見える血糊のついた手袋をはめてきているのを発見したのですが、それも、たまらない。
何発も銃弾を浴びてその衝撃を受ける様子に、息を呑みます。
今際の際の虫の息で「オス・・・カル・・・」と最期の言葉を呟く時には、
椅子に座りながら沈んでいくような心持ちで、こらえていた涙があふれます。
そして続くバスティーユの戦闘シーンでは、それまでほとんど視界に入ってきていなかった美しすぎるオスカル様に、突然、畏れ多くも取り憑いてしまうのでした。
オスカル様がアンドレの名を絶叫するところでは、頭部の分泌系統が、涙とか鼻水とかため息とかで、ごっちゃごちゃになってしまうのでした。
オスカル様の絶望と喪失感に、烏滸がましくも完全に一体化して、
アンドレの幻影とともに、バスティーユに向けて突撃してしまうのでした。
(4) 可燃性のわたし
あの瞬間のすごい集中力が、書きながらよみがえってきているのですが、
観終わった直後には、自分が燃えカスだ、とさえ感じました。
いや、違う。これは熾火です。
いつでも、発火可能です。
4. 退団公演の、フェルゼン
今回の「ベルサイユのばら」は、彩風咲奈さんの退団公演です。
フェルゼン編。
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが、普通の知り合いの人だったら、客観的にみて、こいつ、困った男だよ、と思います。
王妃様に道ならぬ恋を仕掛け、オスカル様に対しては鈍感な上に心無い不用意な言葉を投げかけ、メルシー伯爵の諫言に反抗し(そういえば「窓からメルシー伯爵」のシーンも改訂されていなかったな)、アンドレには身分違いを乗り越えろとけしかけ、オスカル様にはアンドレの心情を勝手に伝えてしまう手紙を書き、スウェーデン国王に対してもヤンチャで通し、刑死する覚悟を決めた王妃さまにそれでも
逃げようと迫る、我儘放題なしょうもないヤツだとすら評することのできる、
フェルゼン。
フェルゼン編ならヴァレンヌ逃亡事件をミュージカル化するといいのに、と、チラリと思ったけれど、それではフェルゼンの段取りの悪さ、間の悪さだけが際立ってしまって、主役としては落第になるかもしれない。もっとも、原作に登場するフェルゼンは、そもそも宝塚っぽくないのかもしれない。
そのフェルゼンを、を、彩風咲奈さんはとても可愛げのある人物として造形してくれました。
今まで、フェルゼンは1989年に観た、朝香じゅんさんが雪組に客演した時のフェルゼンが最高に綺麗だったと思っていましたが、あの観劇記憶は殿堂入りさせることにします。
今回のフェルゼンは、私の観劇史上最高ランクの人物像だと感じています。
彩風咲奈さんへの好感度も、いっそう高くなりました。
退団を決めたタカラジェンヌが発光するような存在へと昇華していく、その姿は本当に特別で、いずれこのことをテーマに文章をまとめてみたいと考えています。
本編が終わったあと、第二幕の後半に繰り広げられるショーは、事実上のサヨナラショー。こんなショーを毎日、多い時は2回ずつ上演していて大丈夫なのかしらと心配になるほどにスパークするエネルギーの炸裂。
彩風さん、最後には汗と涙が目の周りのお化粧を巻き込んで、いく筋もの流れた跡が残っていて、大槻ケンヂみたいになっていました。
咲ちゃん、本当に、ありがとう。最後に愛が勝つところを見せてくれて。
5. 宝塚の「ベルサイユのばら」
宝塚の「ベルサイユのばら」は、
原作の「ベルサイユのばら」とは別のものなのね、という認識が、
唐突に現れてきました。
今更なのですが。
別次元のものとして考えたら、もっと深く味わえるのかもしれない。
そのように考えれば、ひとまずかなり落ち着くことができます。
そして「ヅカばら」のなかでも今回の作品は、出色の出来栄えだと感じています。
でも、心と言葉が、まだ、落ち着いて寄り添うところまでたどり着いていません。
急ぐことはないですね。これからも、ゆっくりと、振り返ります。
原作への愛も、改めて、しっかり振り返るつもりです。
今年の夏、パリへと広がっていった想いの基盤は、間違いなくここにあります。