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ジェームズ1世(ブリタニカ百科事典より翻訳)

 ジェームズ1世。1566年6月19日、スコットランドはエディンバラのエディンバラ城に産まれる。1625年3月27日、イングランドはハートフォードシャーのテオバルズにて死去。

 スコットランド王としてはジェームズ6世。1567年より1625年まで統治し、初のステュアート朝のイングランド王として1603年から1625年まで統治。彼は自らを『グレートブリテン王』と定義した。ジェームズは絶対王権を強く主張し、自己主張をますます強める議会との対立は彼の後継者チャールズ1世に対する反乱の舞台を準備した。


 ジェームズはスコットランド女王メアリーとその伴侶、ダーンリ卿ヘンリー・ステュアートの唯一の息子として産まれる。

(エリザ注:メアリー1世とダーンリ卿は共にテューダー朝の始祖ヘンリー7世の血を引いており、ヘンリー8世の実の娘とは言え、母親(アン・ブーリン)の生まれが卑しいエリザベス1世にとってこの結婚は脅威であり、妨害のために様々な手を打った。何なら自分の恋人であるレスター伯を送り出そうすらした。レスター伯は美男子ではあるものの、頭は空っぽ気味なのをエリザベス1世はよく知っていたので、彼を通じてメアリー1世を操ろうとしたと思われる)

 ジェームズが生まれて8ヶ月の頃、彼の父ダーンリ卿は自宅の爆発によって死亡する。メアリーは三度目の結婚(一度目はフランス王フランソワ2世で、その崩御に伴いスコットランドに帰国した)を第四代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーンと遂げるも、彼女は反乱を起こしたスコットランド貴族達に敗北し、王位から取り除かれた。

(エリザ注:ダーンリ卿の死には不審な点が多い。メアリーとダーンリ卿は共にカトリックだったものの、当時既にスコットランドでは宗教改革運動が起きており、プロテスタント派の貴族にとって王子ジェームズの誕生と共に2人が邪魔になった可能性がある。

 スコットランド宮廷は血生臭く、メアリー1世の秘書官が彼女の見てる目の前で斬り殺されるなどしており、三度目の結婚相手に選んだボスウェル伯爵は不平貴族と交わらず、二代に渡って王室に忠義を果たしたガチガチの忠臣で、周囲が信用できないメアリー1世にとって最後の頼みの綱だった。ボスウェル伯爵は最期までメアリー1世のために戦い抜くも、悲運の最期を遂げる)

 ジェームズは1567年7月24日、1歳でスコットランド王として即位する。メアリーは1568年5月16日に王国を離れ、二度と彼女の息子を目にする事はなかった。ジェームズは年少の間、スコットランドの大貴族達に周囲を取り巻かれ、その間四人、すなわちマリ伯、レノックス伯、マー伯、モートン伯が連続して摂政の座に就いた。これはスコットランドにはイングランドのテューダーのように主君と家臣の間を分断する深い溝がなかった事を示す。実のところ9代に渡ってステュアート家は対等の関係の家々の中の支配者に過ぎなかった。ジェームズは生涯、彼の信頼を得たスコットランドの大貴族達に対する気持ちを保持し続けた。

 若き国王は酷く隔離されたものの(エリザ注:何れかの派閥が『玉』を抑える事を派閥同士好まなかったがためと思われる)、14歳の頃まで良き教育環境が与えられた。彼はギリシャ語、フランス語、ラテン語を学び、家庭教師のジョージ・ブキャナンとピーター・ヤングが彼のために集めた古典と宗教書の書庫を有効に活用した。ジェームズの教育は彼を王侯には珍しい文学的な野望に突き動かしたものの、一方で彼を衒学的(教養をひけらかし、上から目線でお説教する)にした。

 ジェームズは12歳になる前、モートン伯爵が1578年に摂政位から追い出されると、名目上親政を開始した。しかしそれから数年間、彼は依然として対立し、陰謀を巡らす派閥のリーダー達の操り人形に過ぎなかった。イングランドの獄中に幽閉されたメアリーのためにスコットランドを取り返そうと計画するローマ・カトリックのレノックス公爵(フランス育ちのカトリック派貴族。優雅な物腰でジェームズ1世に憧れられ、バイセクシャルの彼のお相手を務めたとも)の影響下に落ちていたジェームズは1582年に(プロテスタントの)初代ゴウリー伯爵ウィリアム・リヴェンに誘拐され、レノックスを糾弾するよう強制させられた。翌年ジェームズはプロテスタントの捕虜から脱出し、王として自らの政策を始めることになる(この時17歳)。

 彼の主たる目的はスコットランドの派閥に従属する事から逃れ、子供のいないエリザベス1世の後継者としてイングランド王位の主張を確立する事だった。ジェームズは自らをエリザベスの敵として方向づけるよりはその好意を獲得した方がいいと実感しており、1585年から1586年までイングランドと同盟を結んだ。そこから先、彼は自身の不安定な政策に忠実であり続け、エリザベス1世が彼の母親を処刑した時ですら形式的な抗議に留めた。

 1589年、ジェームズはデンマーク王フレデリック2世の娘アンと結婚した。2人は1594年、最初の子供であるヘンリー王子を授かった。ジェームズは基本的にスコットランドを上首尾に治めた。彼はカトリック派とプロテスタント派の貴族達をかち合わせ、オクタヴィアンズ(1596年から1597年まで設けられた)として知られる会議を通してエリザベス1世のようにスコットランドを絶対的に支配した。

(エリザ注:オクタヴィアンズは初めて知ったけど、絶対的にと言うには期間が短くないかしらw)

 王は長老派(清教徒の一派。穏健的宗教左派)を信仰していたものの、1594年に彼は一連の法律を定め、自身をスコットランドの長老派協会の首長とし、教会の司教を取り立てる権力を得た。

 ジェームズがようやくエリザベス1世の死に伴い、イングランド王を継承した時、彼は既にイギリス議会に自らが「歳を取り、経験豊かな王である」であり、また、王政の理論を明確に定義していると語っていた。しかし不幸なことに彼の備えた経験や理論は彼に突きつけられた新たな問題を解決するのには十分ではなく、また彼はその不足を補うだけの心や個性を欠いていた。

疲れたのでまた明日。

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