マリア・フィッツハーバート。女のプライド
Ⅰ
その生真面目さゆえに『農夫ジョージ』と敬愛されたジョージ三世に対して、その息子ジョージ四世は何もかもが父王と異なった。ジョージ四世は機知に富み、教養高く会話術と審美眼に優れ、美的センスがあり、イギリス最高のジェントルマンと称される一方、大酒飲みの大喰らい、熱狂的な競馬狂いでそのために国費すら傾ける放蕩者で有名だった。
当然のように女たらしだったジョージ四世は数多の愛人を抱えたものの、その中で最も有名なのがマリア・フィッツハーバートだった。
マリアは貴族と言うには微妙な準男爵家のそれも次男を父に、伯爵家の当主の異母妹を母として生まれる。貴族の血は引いているものの、身分は平民で、財産はあまりない。フランスで教育を受けたマリアは18歳の時に16歳年上の裕福な地主であるエドワード・ウェルドと結婚した。ウェルドはカトリック教徒で、フランス育ちでカトリック教徒のマリアにとっては相性がいいと思われたものの、結婚して3ヶ月で落馬が原因で亡くなってしまう。ウェルドの家族はまるで親しくない新参者のマリアを家族と認めず、ウェルド家からマリアは何の援助もなく文字通り放り出された。
「どうしよう。とにかく誰か頼れる人を見つけないと……」
当時、女性の就労は厳しく制限されている。マリアのように身分は平民でも貴族に近い階級の女性なら尚のこと仕事を探すのは難しい。彼女はなるべく早く再婚せねばならなくなった。
3年後、マリアは10歳歳上のトマス・フィッツハーバートと再婚する。フィッツハーバート家は聖公会(イギリス国教会)が優位であり、カトリック弾圧が何百年も続くイギリスで変わらずカトリック信仰を維持する家で、困っているのにすぐ結婚しなかった事や二度続けてカトリック信仰の家を選ぶあたり、マリアにとってカトリック信仰が強い意味を持っている事が伺える。この結婚は前の結婚と比べれば長続きしたものの、それでも短命に終わり、3年でマリアは再び未亡人となった。とは言え夫婦の生活の実態が今回はあったためか、トマスはマリアに年金1000ポンド(1500万円くらい)とロンドンのタウンハウスを残した。
これがマリアを上流階級の社交界へと誘う。
23歳の若き未亡人であり、多額の遺産を引き継いだマリアは社交界の人気者になった。オマケに美人なのだから完璧。そんな彼女にのぼせ上がったのがジョージ皇太子。即ち時のプリンス・オブ・ウェールズで、この時17歳だった。
「私の如き若輩者からの申し出では不足でしょうが……。どうか結婚して頂きたい……」
マリアは面食らった。遺産目当ての貧乏貴族からの求愛とは規模が違う。身分的にあり得ないのは何より皇太子自身が知っているはず。
「殿下、困ります。身分が違います故、どうぞご寛恕を……」
若い皇太子はそんな事で引き下がらない。ひたすら押せ押せ。
「身分差など! なに、歴史を紐解けば身分差の結婚も王族にはあった事です」
二度の結婚を経験したマリアも、若く、美男子で、向こう見ずな皇太子の圧にはたじたじ。思わず絆されそうになるも、絶対的な障壁が二人の間にはあった。
「殿下、私はカトリックです。信仰は曲げられません。イギリスの次期国王なれば、伴侶もまた聖公会である事が義務付けられます。どうか私は忘れて相応しい方をお探しになってください」
これで終わりね、とマリアは確信するも、ジョージ皇太子はいささかも怯まなかった。
「私は本気です。これで王位を失うなら、本望です」
マリアの胸が高鳴った。
Ⅱ
マリアは何度も無理だと言ったものの、ジョージ皇太子は梃子でも譲らぬと彼女が結婚に同意するまでマリアを追いかけた。
「財産があるって言ったって、皇太子の目から見れば吹けば飛ぶようなものの筈……! まさか、本当に? 遊びではなくて本当に私と結婚したいの!?」
マリアは遂に押し負けた。事実上不可能なのは互いに知っている。英国法は国王の伴侶がカトリックである事を禁じていた。現実的には愛人しかない。しかしマリアも、ジョージ皇太子も、結婚したかった。
1785年12月15日、二人は秘密裏に結婚式を挙げる。列席者は限られ、祝福を施す牧師は債務が重なって悪名高いフリート刑務所に放り込まれていたのを、ジョージ皇太子が肩代わりして支払う事を条件に式を執り行った。
英国法上、王族、特に国王や皇太子の結婚は厳しく制限されており国王と枢密院の許可を得ない結婚は無効だった。そして仮にこの結婚が合法と見做された場合、ジョージ皇太子は王座を放棄せねばならない。聖公会の国イギリスに、カトリックの王妃は不要なのだから。
「ばか息子が! 立場も弁えず!」
父王ジョージ三世は激怒する。彼はかつて恋仲の女性と身分立場を理由として引き裂かれ、結婚式の日まで会ったことも無かった女性との結婚を、次期国王なのだからと受け入れた過去を持つ。
「捨て置け! 何れ熱も冷める!」
王家はこの秘密結婚を黙殺した。ジョージ皇太子の悪友達ですら軽はずみと思い、マリアを愛人として遇した。
「ははっ、貴婦人殿のために馬車を呼べと申される。よござんす。今お呼びしましょう。ミセス……。ああいや、こちらの、ミストレス(愛人)殿のためにね」
24時間365日誰かに喧嘩を売らないでは済ませられないダンディーのボー・ブランメルもそんな風に公然と批判する。後の訣別の理由はこの辺にもあるかも知れない。
しかし二人の間柄は良好で、マリアは皇太子が自分のために建ててくれたお屋敷に住み、皇太子はそこを事実上の家として同棲した。金遣いが荒いジョージ皇太子は寧ろマリアに縋って生活の面倒を見て貰う始末だった。
「ずっと、こんな日が続けばいいけど……」
歳下の恋人を隣に、マリアはこんな日々が長続きしない事を予感していた。どう考えても不自然過ぎる関係だった。
ジョージ皇太子は年上の女性に弱かった。10歳年上のフランセス・ヴィリアーズにやがて皇太子は惹かれる。フランセスはマリアから皇太子を奪い取ろうと積極的に誘惑した。また、皇太子を取り巻く情勢もだんだんと移り変わる。破滅的なまでに金遣いの荒い皇太子は王室予算を使い果たし、国家予算にまで手をつけ、なお足りずに巨額の借金を重ねる。その総額は60万ポンド(75億円)にも達した。
折しも父王ジョージ三世が精神異常に陥り、統治不能と回復を行き来する頃。ジョージ皇太子は次期国王として責任を持つ事が強く期待されていた。即ち、カトリック女との関係を切れ。
「借金の肩代わりと引き換えに結婚しろ。ただしプロテスタントの貴族とだ」
「結婚なら何年も前に……!」
「認められると思うか? 愚息よ、そろそろ大人になれ」
借金で雁字搦めのジョージ皇太子はこうしてドイツ貴族のキャロラインと正式に結婚する事になる。10年前の若い情熱が冷めていたのもあった。プレイボーイのジョージ皇太子は今や女慣れしている。キャロラインも、肖像画で選んだ。ところが実際婚約者がやって来るとジョージ皇太子はたちまち嫌悪感を覚えた。
「酷い体臭だ! 風呂に入ってないのか!? なに、風呂嫌いだと!? こんなのと明日から結婚だなんて、飲まなきゃやってられるもんか!」
一方のキャロラインもジョージ皇太子に失望する。
「肖像画だと美男子なのに、なんてデブ!」
酒食に溺れるジョージ皇太子は不摂生が祟ってとんでもない肥満体型だった。
夫婦生活は結婚初日から破綻する。結婚式に出たジョージ皇太子は完全に酔っ払っており(ジョージ皇太子はアル中で、シラフと泥酔を生涯行き来した)、弟二人に左右から抱えられながら式典を終える程であり、キャロライン王妃もキレる。結局、二人の間に娘がもうけられると、義務は果たしたとばかりジョージ皇太子はキャロライン王妃に年金を与えて放置し、キャロライン王妃はそっちがそうならこっちも自由にやるとばかり愛人を外国にこさえて放埒に走る。割れ鍋に綴蓋とは言うけど、この場合はどっちも我が強すぎた。
「ヴィリアーズ嬢にも退屈した。やはり私の妻はマリアよりない……」
ジョージ皇太子はいっとき、マリアと距離を置こうとしたものの、結局1798年にはヨリを戻すよう求め、王妃と別居状態でマリアとの同棲生活を再開する。
「彼女はもう一人の私に等しい。私の心、魂の妻……」
キャロラインとの結婚や、ヴィリアーズの誘惑にも関わらず、ジョージ皇太子は1807年までマリアとの間柄を大事にする。しかしマリアが懸念した通り、やがて終わりはやってくる。知的で政治的な会話ができるハートフォード侯爵夫人にやがてジョージ皇太子は夢中となり、その手の会話ができないマリアはお払い箱となる。ハートフォード侯爵夫人は自らの立場を盤石とすべく、マリアに侮蔑を加え、ジョージ皇太子の心もマリアから離れた。やがて即位し、国王となったジョージ四世は若き日のマリアとの結婚を後悔し、公然とこれを否定した。
「あんなのはおままごとみたいなものだ!」
マリアとしても流石に穏やかでは居られず、両者の間柄は冷却化する。マリアは事務的にジョージ四世に年金の支払いを要請した。彼女はジョージ四世からの恋文を全部保管してる。無言の脅しとしてそれらは機能し、渋々ジョージ四世は年金を支払った。
1830年、放蕩三昧の末、幾多の生活習慣病でジョージ四世が今際の際にある時、詳しい状況は知らずとも心配になったマリアは仲が悪くなっているのを承知で手紙を送った。
『きっと、よくなりますよ』
手紙を読んだジョージ四世は臨終の床で咽び泣き、手紙を何度も読み返すと、枕の下に入れた。
「返事を、彼女に返事を。くそ、動けこの腕。彼女が、マリアが悲しむじゃないか……」
最早手紙一つ出せないまでに追い詰められたジョージ四世は初恋の女を想い、最期の時を迎えた。
「彼女のラバーズアイを余の墓に共に葬ってくれ。済まなかったマリア。愛している」
「返事が来ないわね……。そうね、こんなおばさんなんて、もう、どうでもいいわよね……」
そんなマリアの下にジョージ四世の弟であり、今や次代のイギリス国王であるウィリアム四世がやって来る。
「今はまだ公表していませんが、兄王は亡くなりました。兄は、最後まで貴女の名を……
兄の不誠実を謝罪します。そして、これまでありがとうございました。せめてもの感謝として、公爵夫人の称号と相応しい年金を受け取って頂きたい」
マリアの中で瞬間、さまざまな思い出が蘇る。しばしの沈黙の後、マリアは落ち着いてウィリアム四世に答えた。
「ありがとうございます陛下。そうですか、あの人は、最期まで私の事を……。それだけで十分です。公爵夫人も年金も要りません。ただ、二つだけ、お願いしたい儀がございます」
「なんなりと、仰って下さい」
ウィリアム四世が返すと、マリアは微笑みながら答えた。
「私に未亡人の喪服と、私の使用人達に、王家の模様の制服の着用許可を……
私は、国王ジョージ四世の……」
本物の、王妃です。とまでは言えなかった。
ウィリアム四世はマリアの申し出を許可し、ジョージ四世との思い出と共に彼女は余生を送った。ジョージ四世が愛した土地にマリアは終生尽くし、困った人や、迫害された人のために働き続ける。
公爵夫人よりも、高額の年金よりも高い価値があるものをマリアは得て、人生を終えた。
聖公会の基準で言えば愛人関係だった二人の結婚を、ローマ教皇ピウス7世はこう評する。
「神の目には、二人は、依然として夫婦です」