自担の主演映画を楽しめない~映画『赤羽骨子のボディガード』感想~

私は2020年末頃からアイドルグループ・Snow Manのラウールさんのオタクをしています。なのでラウールさんの主演映画『赤羽骨子のボディガード』はもちろん劇場で何回も見てきました!テンポの良いストーリーがとにかく爽快で、特にラストのダンス大会とリンクするように展開される戦闘シーンは胸アツでした。とっても楽しいエンタ-テイメント作品として、見事に仕上がっていると言えます。

1本のオリジナル作品として考えれば、ですが。

私は事前に原作を読み込んでしまったせいで、実写映画化に際して改変された部分が気になってしまい、手放しでこの映画を楽しむ事ができないでいます。

そもそも私は、コロナ禍以前、2次元の漫画・アニメ・ゲームを原作とした3次元コンテンツ、いわゆる2.5次元作品を中心とした舞台のオタクをしていました(ステイホームでやる事がないのでSnow ManのYouTubeを見るようになって~という流れで今に至ります)。好きな作品の2.5次元舞台だけでなく、好きな俳優さんが出演する、知らない作品の2.5次元舞台も見ます。その場合は必ず、事前に原作の予習をしてから観劇するのがマイルールです。舞台化するなら、原作を知らなくても舞台作品単体として楽しめるように作るべき、とは思いますが、やっぱり事前に原作の知識があった方が、より深く舞台を楽しめるからです(過去に一度だけ原作未修でテニミュを観劇したところ「何故ずっとテニスしかしていないんだ!?」と初歩の初歩で躓いたのがトラウマというのもあります)。

なので、自担が出演する原作モノの実写映画に関しても、2.5次元作品を見る時と同様に、事前に原作をしっかり読み込むのが当たり前だと思っていました。それに以前、ラウールさんが出演した『ハニーレモンソーダ』でも原作を読んだ上で映画を見たところ、より映画を楽しむ事ができました。

けれど、今回の『赤羽骨子のボディガード』に関しては、事前に原作を予習していったのが仇となってしまったのです。

映画化をきっかけにこの作品に触れたので、私は元々の原作ファンの皆さんと同じ熱量を共有できているとはいえません。それでも原作を読んだ時に感じた、この漫画の魅力の一つである「ヤクザに対して荒唐無稽な方法で立ち向かう、カタギである主人公・荒邦の無鉄砲さとクレバーさ」が、この映画では感じる事ができませんでした。

当たり前です。映画では赤羽骨子はヤクザの隠し子ではないのですから。

原作では骨子の父親はヤクザでしたが、映画では国家安全保障庁という架空の省庁の長官となっています。それに合わせて、骨子の姉・正親もヤクザではなく、MI6に出向していたエリートとなっています。みんな大好きコンプライアンスのせいで、ヤクザ設定が変わってしまったんでしょうね。赤羽骨子のヤクザ設定なんて、リアリティゼロのフィクションファンタジーヤクザなのに…そんなところまで暴排法を適用しなくても。

ヤクザ設定ができない時点で『赤羽骨子』を実写映画にする必要性を感じられないなあ、というのが正直なところです。原作だと、骨子のボディーガードである3年4組は骨子の父親が組長を務める尽宮組の持ち物なので、骨子の命を狙う人間が尽宮組に所属している場合は手出しできません。しかし、荒邦だけはカタギの人間なので、刺客が尽宮組だろうと問題なく戦えます。また、そもそも荒邦はカタギとして育っているのでヤクザとしての価値観しか知らない人達とは違った視点で物事を見る事ができ、そのおかげで救われたキャラクターも多くいます。荒邦がカタギというのは、彼のキャラクターとしての魅力の一つだと思っていたので、ここが改変されてしまったのは非常に残念でした。

映画化に際して、原作を忠実に再現する事だけを追い求める必要はないとは思います。例えば、骨子と荒邦のデートシーンが図書館から水族館に変わっているのは、その方がスクリーン映えするので、これはこれでアリではないでしょうか。また、骨子にかけられた懸賞金の額が1億から100億に値上がりしているのも、映画らしい大きなスケール感になっていて良いと思います。

とはいえ前述したヤクザ設定の事や、原作では3年4組全員の師匠である荒邦の父親・丈夫が故人になっていた上、3年4組全員の師匠ではなく3年4組の司令塔・澄彦だけの師匠になっていたり、このような改変が作品の“芯”の部分を変えてしまっている気がします。

原作の3年4組は、幼少期より全員一緒に骨子のボディーガードとして育てられてきた家族同然の関係として描かれています。一方で、映画では荒邦と澄彦が同じ男に育てられた兄弟として、“父親”の仇に挑みます。この荒邦と澄彦の関係は、父親が存命ながら上手に父親との関係を築けなかった正親と、そもそも父親の事も姉の事も何も知らない骨子の関係と対比にさせたかったのかもしれません。描写自体は上手いとは思いますが、それ『赤羽骨子のボディーガード』でやる必要あるのか、という疑念が拭えません。別のオリジナル作品としてやってくれ、と感じてしまいます。この改変のせいで3年4組が家族という設定もなくなってしまったのですから。

連載が続いている漫画を1本の実写映画にするとなれば、様々な制約があり、どうしても原作を改変しなくてはならない部分が発生してしまうというのは、ある程度は仕方のない事だと思います。原作に忠実である事を優先し過ぎるあまり、映画として失敗しては意味がありません。それでも、世界観やキャラクターの根幹に関わる部分はそのままに、映画としての面白さを追求するのが、原作モノの実写化の醍醐味ではないでしょうか。

全て原作通りにする必要は無いですし、前述の通り「その方がより映画として面白い」のならある程度改変しても構わないと思います。ただ、骨子の父親の職業をヤクザから架空の省庁に変える、というような明らかな大人の事情が理由での改変となれば、じゃあわざわざ実写映画化する必要ないよね?となってしまいますし、他の改変部分も気になってしまいます。荒邦と正親の学校でのタイマンシーンのセリフの掛け合いなど、映画自体に面白いポイントはたくさんありますが、それでも改変のせいで手放しでこの映画を褒めるのは躊躇ってしまいます。

私は原作者でもないですし、原作ファンでもありません。実写化をきっかけに原作を読んだだけの、主演のファンです。それでも、原作と違う箇所が気になってしまい、モヤモヤするのです。原作の記憶を失えば、楽しかった!って言えるんですけど。

あれ、この感覚、2019年に上演された音楽劇『トムとジェリー 夢よもう一度』を見た時と同じだ!(進研ゼミ)


この音楽劇はそのトムとジェリーの舞台化作品として、多くの吉本芸人やJr.がキャスティングされていました…はい、嫌な予感がしますね。案の定、オリキャラが出張ったりキャラクターの性別が変わっていたりしていました。私は小学生の頃からトムとジェリーが大好きだったので、この作品を原作ファンの立場で観劇しました。当時はアイドルに一切興味がなかったので。この作品における改変は、原作ファンとして到底許容できる改変ではありませんでしたが、原作の記憶さえなければ、子供でも楽しめる作品として良質なものでした。アクロバットとか凄かったし。

本当にいっつもそう!なんでアイドルがキャスティングされるとこういう変な改変されるんだろう!と現在はすっかりアイドルのオタクとなってしまっている私ですら感じてしまう訳ですよ。こんな事ばかりしているせいで、一部からアイドルという存在自体が嫌われてしまうんです。いい加減、日本のエンタメ界は原作をリスペクトする事を覚えて欲しいです。原作リスペクトの上でアイドルを起用すれば、ちゃんと本人の実力を観客から判断してもらえるようになるはずなので。こういう改変は、決してアイドルが出演する作品にだけ起きている事ではありませんが、原作モノでアイドルが起用されている場合に起きる忌避感の理由には、こういった事が挙げられると思います。原作を改変するような制作陣がアイドルをキャスティングしたって事は、役に合ってるからじゃなくて客寄せパンダとか事務所のゴリ押しとかで選ばれたんだろうな~みたいな。

今後自担が原作モノの作品に出演するかどうかは分かりませんが、もしまた出る事があるのなら、原作の根幹を揺るがす改変をしていない作品に出て欲しいです。また、原作は絶対に作品を見た後に読みます。

無論、原作ファンでもこの映画を楽しんでいる方もいらっしゃるでしょうし、原作者の丹月正光先生も賛否両論ある事を認めつつも好意的に受け取っていらっしゃいます。


それでもやっぱり、原作ファンもキャストのファンも、どちらもモヤモヤする事の無い、原作へのリスペクトが伝わる作品作りをして欲しいなあと一消費者としては思ってしまうのでした。

なお、アイドルが出演する原作モノの実写版というテーマかつ筆者がスノ担にも関わらず、本文中で不自然に『おそ松さん』の話題が出ないのは、私が『おそ松さん on STAGE』という舞台にクソデカ感情を抱いており、松ステがキャストの不祥事等の諸般の事情からシリーズ続行不可能となってしまった事による心の傷が癒えていない中で、望んでない実写映画化をよりによって好きなアイドルでされて感情の持って行き方が分からなくなり、ブラザービートを聞くと床を黙って見つめる事しかできなくなった哀れな生き物になってしまったからです。なんかずっとアイドルに好きなコンテンツをめちゃくちゃにされてるのに、なんでアイドルのオタクしてるんだろ、私…