見出し画像

Curriculum Vītae Meae (私の履歴書)



私は信頼できない語り手である

私の人生についてどこかに書きたくなったので書く。しかし、正確であることは保証できない。その理由は、まず、個人情報を特定されるおそれのある箇所はボカして書くつもりだからである。次に、意図的に嘘をつきたいと思っていなくても、記憶の誤りは避けられないだろうからである。

また、そもそも歴史の記述において、すべてを公正に正確に判断した客観的歴史観というものが可能なのかという問題がある。現代の歴史家は現代に生きている。ならば、現代の歴史書とは過去の対象ではなく現代の著者が書いた現代における研究にならざるを得ない。トランプが選挙に勝てば「なぜ民主党は負けたのか」を分析し、バイデンが選挙に勝てば「なぜ共和党は負けたのか」を分析する。結果が原因探究を規定する。歴史学の限界はここにある。

政治や社会や自然の歴史でさえ限界があるので、人間である私の歴史はさらに脆弱である。臨床心理学や精神分析などはたとえ嘘でもいいから何か原因を措定して、その仮説を上に乗って心を治療するものだろう。「私の記憶は正しいのか」「過去は存在するのか」「時間とは何か」などと寝椅子の上で話したら精神分析は失敗するだろう。とりあえずフロイトでもユングでもアドラーでもいいから理論を受け入れなければ治癒の道が開けない。これは善悪の問題ではなく、ただ単に事実を述べているだけである。

ここから先は

10,812字 / 1画像

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?