「優秀な20代」が優秀なままでいられない理由
今でこそそれなりに仕事人間になっていると思うが、社会人になって数年ぐらいは「正社員だろうがバイトだろうが同じ」ものだと考えており、「決まった時間拘束されるが、それを耐えればお金が貰える」という感覚で仕事をしていた。
それが変わったきっかけは、25歳で趣味に近い仕事に就いたためであり、なんの興味もない仕事だったならば、おそらく今でも同じ捉え方をしていたと思う。
ある程度規模のある会社ならば、毎年新卒採用をしていると思うのだが、だいたい毎年、今年は使えないだの〇〇は優秀だのという話を耳にする。
しかし、社会人一年目の時点で優秀だの使えないだのわかるワケがない。
当初数ヶ月でわかるのは「器用な人(要領の良い人)」と「そうでない人」(+発達障害か否か)ぐらいであり、だいたい誰が見ても明らかに優秀な人ならば、そもそもここには入社していないだろう…などと思うのだが、世間話の一環なのか、このテの話題が尽きることはない。
しかし、20代の頃に優秀(=器用)と見做されていたタイプの人は30代ではほとんど見かけなくなる。
30代以降は大多数の「普通の人(ぼちぼち出来る人含む)」と一部の「出来ない人」、そしてごくわずかな「優秀な人」しかいなくなるのだが、「とりわけ一芸に秀でている訳ではないがとにかく器用で優秀」と見做されていた人々はどこへ行ってしまうのだろうか。
これは私見だが、20代の頃に器用さを評価されていた人たちというのは、年月を経て管理職に就くが、しかしさほどデキる管理者にはなれず「普通」の人になっているのではないだろうか…?
前職において20代の管理職が2人いたのだが、2人とも器用なタイプであり、うち1人は特に抜きんでていた。そして2人とも新卒の「器用な人」を高く評価していたのだが、私は「おそらくこの3人ともたいして伸びないだろうなあ」などと思っていた。
理由は明白で、彼らは全く勉強をしないのだ。
そもそも日本の社会人は勉強をしなさすぎる(欧米+アジア最下位)という話があるが、社会人以降は勉強をしないのが普通であり、下手するとなんの勉強をすべきなのかもわからない…という事がある。
彼ら3人に共通しているのは、持ち前の器用さによって目の前のミクロな仕事は人並み以上に出来るが、マネジメントや目標達成のためのプロセスを考える事などは出来ず、しかし自身を優秀だと認識しているため己の不足について認識していない…という点だ。(そして「器用でない人々」についての悪い噂を流す)
勉強してきた人たちは、専門職ならば「優秀なプレイヤー」となり、管理職ならば「優秀なマネージャー」になり得るが、プラスαで学ばなかった人々は、器用さというアドバンテージがありながらもそのまま若さを失い、普通の人になる。
しかし20代の頃に優秀だと評価されていたため、30過ぎても40過ぎても己に対する認識が変わることなく「自分は優秀」と思い込み、結果として自己認識の甘い微妙な管理職が爆誕するのではないだろうか…。
20代後半の頃に在籍していた会社は、一番多い時で100人近く在籍していたそこそこの規模のIT企業だったのだが、売り上げが芳しくなく、数度のリストラを経て最終的にIT系の大企業に買収された。
そこのデザイン部に在籍していた、とある下っ端の青年は、それなりに出来るプレイヤーでありながらも不採算部門であったがために真っ先に切られ、設立数年のベンチャー企業に入社したのだが、その後大企業に成長。
デザイン部門を統括し、いくつか著書も執筆するような日本有数のデザイナーになった…という事を最近知った。
彼と同僚だった頃、標準よりは上だと思ってはいたが、とりわけズバ抜けている訳でもなく(今思えばかなりハイレベルな環境にいたと思うのだが)彼がそのような立場になると予測していた人はほとんどいなかっただろう。
しかし振り返ってみれば、休日も有志の勉強会には頻繁に参加し(※デザイン部で参加していた人は他にいなかった)、社内でも特別に優秀だと見做されていたチームリーダーと密接な親交を持ち、地味な存在ながらも大きく伸びるシグナルはあったと思う。
周囲が気付かなかっただけなのだ。
イケている大企業ならば話はまた違うのかもしれないが、最終的に「優秀」と評価されるのは器用さがウリの人ではなく、こうした真の意味で「勤勉」な人なのではないかと思う。
※上記はイケてないベンチャー・中小企業の話なので、良い大企業なら社員の志も違い、教育体制も整っているので、このような事態にはなりにくいのかもしれない(願望)