【祝コンサル卒業】えりまどの今までのキャリアと今後の活動方針を伝えます
こんにちは、えりまどです。
今回はタイトルにもありますように、近況報告と今後の活動方針について執筆させて頂きます。
まず、今回初めましての方も多いと思いますので、自己紹介させてください。
以下が私のざっくりしたプロフィールになります。
JTCや外資系コンサルファーム、上場企業の経営企画等を経て2020年に独立・起業したのですが、直近まではメインでフリーランスのコンサルとして活動してきました。
「きました」と過去形にしたのは、既にフリーランスとしての活動は一旦クローズし、現在は自分の実業にフォーカスしているからです。
いやー長かった!
丸々4年以上やりましたからね。。。。。
もうコンサルはお腹いっぱいなので、基本的にはもう二度とすることはないでしょう(願望も込めて)
これからはX(twitter)やYouTube等のインフルエンサー業や、最近開始した転売などの物販をして生活していこうと思います。
さてさてそんな私ですが、今までどのような半生を生きて現在に至るのか、本記事にて説明させて頂けばと思いますので、是非最後までお付き合いください。
幼少期
まず、今年35歳になる私えりまどですが、1989年に関東圏のとある田舎にボーンしました。
自然に恵まれた環境で育ったので、森でカブトムシを捕獲したり、川で魚を捕まえたりとワイルドに育ちましたね。
因みに腕力も強かったので、所謂「ガキ大将」的な育ち方をしました。
周囲には大工や飲食店など、自営業を構える人が多かったので何となく自分も自営業になるのかなと漠然と幼いころは考えていました。
地元から離れるという考えは、当時自分の中には全有りませんでしたね。
オーストラリアへ
さてさて、そんな閑静な場所で幼少期を過ごした私ですが、人生の転機が10歳の頃にやってきます。
親父の仕事の都合でオーストラリアに行くことになったのでのす。
しかも期間は最低3年!
10歳の私がデジモンやポケモンが見られなくなる事に絶望し、泣きじゃくったのを良く覚えています。
※デジモンもポケモンもオーストラリアでも放映されていることを知ったのは渡豪後の話
オーストラリアは時差こそ日本と1時間程度しかありませんが、南半球に位置しており、季節が日本と真逆です。
しかも多文化共生兼かつ英語が公用語のため、英語も学ばないと日常生活も送れません。
10歳の私は不安で結構パニくりましたが、親の決定に逆らう術もなかったため2000年の4月からオーストラリアに移住する事になりました。
オーストラリアに住み始めた時の気持ちは今でもよく覚えています。
「あれ?日本より快適なんじゃないか」
海も家から近く、公園も沢山あり自然に恵まれている環境や、フィッシュアンドチップスやBBQなどのヘビーな食文化も10歳児には桃源郷そのものでした。
当時は日本企業がオーストラリアには多く進出していた事もあり、親日的な文化もあり友人を作ることも然程苦労はしませんでした。
※こどもって言葉の壁があってもゲームとかしていると仲良くなれるのいいですね。
一方で英語の習得は最初の頃はかなり大変で苦戦しました。
単語も知らなければ文法も全く理解できず、言いたいことが言えずもやもやした日々を過ごしたのを覚えています。
周囲の日本人のこどもと比較しても英語の習得には時間を要したので、英語習得の才能は低かった方かも知れません。
まあその為、英語が苦手な人の心境や躓くポイントがよく分かり、その結果英語指導者として今では飯を食っている訳ですから、人生何が起こるか本当に分りませんね。
※帰国子女の英語指導者が開発した誰でも実践可能な「最強の英語学習術」は、こちら
そんなオーストラリアでの経験が、えりまどの人生観に大きな影響を与えます。それは労働に対する考え方です。
2000年当時、日本人は世界一働く生き物として世界中で有名で、オーストラリアでも駐在員の激務っぷりはオージーから嘲笑の的にされていました。
「過労死」は英語でも"karoshi"というのですが、海外には命つきるまで働く人は殆どいない為、日本語の「過労死」が外来語として使われていたのでしょう。
実際、父親の会社の駐在員と現地のオーストラリア人の労働時間は圧倒的に前者の方が長かったのを子どもながらに記憶しています。
「俺は絶対に日本人のように働きたくない」
子どもながらに辛そうに働く日本人を見て、オーストラリアの西海岸から臨むインド洋に向かって誓いを立てたのです。
高校卒業まで
さてさて、そんな楽しいオーストラリア生活を過ごした私ですが高校に進学するタイミングで日本で帰国しました。
進学したのは"the 田舎の進学校"という感じの高校で、オーストラリアの解放的な雰囲気とは180度異なる閉塞的な環境でした。
令和の現代では信じられませんが、私が高校に進学したばかりの2005年時点ではまだ軍隊のような方式が取り入れられており、気に入らないことがあると教師にビンタされるなどが普通にありました。
私は従来の自由を愛する性格に加えて、自由の国オーストラリアの生活を経験したので、中々この軍隊式の校風には馴染めませんでした。
※というか最後までに馴染むことは不可能でした。
教師というだけで生徒を下の存在と見なして高圧的な態度で威嚇してくる教員の態度も理解できなかったですが、もっと理解できなかったのがその事実に何も疑問を持たず、受け入れる生徒の方です。
なんなら自分たちは下の存在であり、教師のいう事には盲目的に従う事を善としている風潮すら感じました。
「なんか、こいつらとは合わんな」なんて思いながら、本当に気の合う数人とだけ関わりながら高校3年間を過ごしました。
高校時代の3年間はとても長く感じましたし、かなり窮屈でしたが今思うと私の組織体制の無さはあの頃から変わらずだったのかも知れません。
今思い出しても人生でも最も辛い時期だったかも知れません。
大学で学んだ事
さてさて、そんな暗黒の高校時代を過ごしたえりまど君ですが、大学は慶應義塾に進学する事にしました。
大学入学前は「俺は財務省に入省し、日本のプライマリーバランスを0にする為に生まれてきた男だ」と、病的な妄想に頭を侵されていたため法学部政治学科にしました。
入学の理由は意味不明でしたが、法学部政治学科は法律も政治も経済も万遍なく学ぶことができたので結果凄く良かったと思っています。
※因みに国家公務員試験の勉強は大学2年生の時に渋谷でナンパの楽しさを覚えてから一度もしたことがありません。
さてさて、大学で様々な事を大学で学んだ私ですが、特に興味を持ったのが「マルクス経済学」と「労働法」です。
ググれば何でも出てくる時代なのでマルクス経済学の詳細の説明はここでは控えますが、マルクスの著書「資本論」の中で私が一番感銘を受けたのが「資本主義社会において労働者は搾取される側」という教えでした。
元々官僚やエリートサラリーマンになる為に受験勉強をしてきた私にとって「搾取される側」になる為に努力していたと気づかされた事は大きな衝撃でした。
少し考えてみればあたり前ですが資本家サイドからしたら労働者には長く、払った以上のパフォーマンスを出し続けて欲しいと思っているのです。
ある会社は給料で、別の会社はやりがいで、ツールは様々ですがあの手この手で労働者のやる気を出させ働かせようとするのはいつの世も変わらない普遍の法則なのでしょう。
マルクス経済学の後は「労働法」に興味を持ち勉強しました。
資本家に搾取される労働者にならないといけないのであれば、その労働者として身を守る為の知識が必要だと考えたからです。
労働法はざっくりいうと労働者保護の法律です。労動者の立場は、使用者に比べると弱くなってしまう傾向に当然ですがあります。
立場の弱い労動者は、劣悪な労働条件を押し付けられるなど、使用者から搾取されてしまうおそれがあります。
その為、労動者を保護するための様々なルールを設けて、使用者・労動者間の力関係を是正することが、労働法の主な役割です。
要は社会に出て、理不尽な事を言われても戦えるように理論武装しようと思ったわけですね。
これも結果的にかなり功を奏しまして、社会人になった後かなり心の支えにはなりました。
※この法律系のバックグランドを買われ、最初に入社した会社は法務系に配属されたのは今でも鉄板ネタです。
JTC
さてさて大学も無事ストレートで卒業し、就職活動も終えた私は2012年に社会人になりました。
2012年の入社組(=2011年就活組)の方は御存知だと思いますが、就活時に東日本大震災を経験し、3年前に起きたリーマンショックの余波と相まって「戦後最大の就職氷河期」と言われた世代です。
そんな状況でも私はどうにかこうにか大手JTCに就職できたのですが、我ながらよく入社できたなあという所感です。
入社前は初めて社会に出るという事もあり、期待半分/働くことへの絶望半分といった状態だったのですが、入社日初日にその期待は全て消え失せました。
というのも、私が入社したJTCは入社した最初の1か月は入社時の研修があるのですが、その研修が中々の軍隊式だったのです。
"叱り役"のような中年の厳ついおっさんが出てきて、怒鳴る・罵声を浴びせるなど到底社会人に対する態度とは思えないような態度でこちらを威圧してきました。
また研修の内容もドキュメンテーションスキルの向上等ビジネスマンのスキルとして有意義なものというよりも、社是を覚える/経営理念を読み上げるといった前時代的なコンテンツで全く意味があるものとは、私には思えませんでした。
思い立ったら即決断するのが私ですので、入社初日に転職サイトに登録したのを今でも鮮明に覚えています。
「絶対にここから抜け出す」
その思いを胸に転職活動を開始し、どうにかこうにか外資系のコンサルファームに内定をもらうことができました。
2年未満の退職とかなり短いスパンでの転職となりましたが、やっとの思いでここまで辿りついたのです。
コンサルファーム
さてさて、そんなこんなで憧れていたコンサルファームに入社した私ですが、そこには想像を遥かに超える世界が待ち受けていました。
噂には聞いていましたがコンサルファームでの仕事は想像していたよりも遥かに激務で、かつ求められるアウトプットの質も異次元のレベルでした。
JTC時代の私は基本毎日定時に退社していましたし、コンサルで求められるようなパワポやエクセルなどのツールも使った事が殆どなかったため、労働時間の長さと求められるドキュメンテーションスキルの高さにはかなりのカルチャーギャップを感じました。
基本的に仕事開始は朝の9時から深夜2時くらいまで、タクシー帰りの毎日(タクシー代は出ました)土日もどちらか1日は必ず仕事で潰れる、といったような日々でした。
余談ですが、戦略コンサル時代に身に着けたエクセル術は、退職し10年近く経過した現在になっても飯の種となるくらいの財産になっているスキルです。
私の血と涙と汗の結晶を具現化したExcel術にに興味のある方は、下記からどうぞ
加えて、当時の戦略コンサルというのはパワハラの巣窟のような場所です。
今では信じられませんが、日常的に「4ね!」や「消えてなくなれ!」等の暴言をよく吐かれていましたね。
中でも印象的だったイヤミが、プロジェクトの中間報告が終わったタイミングの打ち上げの飲み会での出来事です。
私は大酒のみなので、会社の経費の飲み会と言う事もあり序盤からガンガン飲みまくっていたのですが、プロジェクトのパートナーからこんな一言を言われました。
「えりまど君。仕事で禄にパフォーマンスも出さず、会社のお金で飲むお酒は美味しい?」
流石戦略コンサルでパートナーまで登り詰めただけあり、ウィットに富んだイヤミを言うものだと感心したものです。
因みにその時のお酒は会社の金であったこともあり、普段の1.5倍くらい美味しかったです。
また余談ですが、そのパートナーは既婚者であるにも関わらず、自分に部下であるマネージャーの女性と浮気をしていたのですが、私とそのマネージャーの女性も男女の関係に同時並行であった事がプロジェクト終了後発覚しました。
同じ女性を愛した者として、もう少し仲良くしておけばよかったと反省している所です。
窓際族時代
戦略コンサルから事業会社へ
さてさてそんな激務を極めた戦略コンサル時代ですが、あることがきっかけで去る事になります。
それはベンチャー企業(と言っても上場はしている)の役員の方と飲み会で知り合ったことがきっかけでした。
彼が役員を務める会社で海外事業進出を企てている為、帰国子女で戦略コンサル経験のある私に入社し、手伝って欲しいというのです。
しかも待遇はコンサルファーム勤務時の年収を完全に維持してくれるという好待遇です。
戦略コンサル経験者の方には理解頂けると思うのですが、戦略コンサルは勤務時には、そこそこ高給なものの、事業会社転職時には待遇が下がってしまういうケースが殆どで退職時のボトルネックになっているケースが多いです。
待遇がそのままと言うのは破格の条件だったため、2つ返事でOKしました。
しかも携われるのは「海外事業企画」や「マーケティング」等なんかかっこいい仕事です。
「会社の金で海外いけるなんて最高やん!」
そんなアホな理由で何も考えず、えりまど君は転職するのでした。
天国から地獄へ
さてさてそんな軽い気持ちで事業会社へ転職したえりまど君でしたが、転職した当初は天国でした。
コンサル時代のように深夜まで働く事もなければ、思惑通り会社の経費で海外出張も行きまくる事ができました。
しかも外資系の戦略コンサル出身のエリート枠採用と言う事もあり、社内の女の子にも結構モテました。
まさに人生の春という感じで仕事、プライベート共に遊び惚けましたね。
しかしそんな時代も長くは続きませんでした。
というのも海外事業進出が上手くいかず、徐々に海外事業部は肩身の狭いポジションに追いやられてしまったのです。
まだ若かった私は経営企画部と兼務する形に最終的に落ち着いたのですが、他の先輩社員は責任を取る形で辞任に追いやられていました。
私も仕事にやる気をなくし、キャリアの迷子に完全になってしまっていました。
恩師との出会い:窓際族へ
そんな不貞腐れていた時に仲良くなったのが3歳上の会社の先輩でした。
その先輩の名は「たまおさん」というあだ名で呼ばれていました(映画のクローズ0に出でくる芹沢多摩雄)に似ているからです。要は山田孝之似です。
このたまおさんは大学を中退しており、バイトからの叩き上げで入社しているのですが、イケメンであることが災いし、社内外で色んな女に手を出し干されている人でした。
給料は決して高くはなかったのですが、おばあ様の残した遺産を食い潰しながら豪遊し、毎日飲み歩いているクソ野郎でした。
社内では完全に「窓際族」として干されており、最初は私も軽蔑していたのですが、ふと社内の飲み会で隣の席になったのをきっかけに一緒に飲みだすようになりました。
遊び人だけあり、カラオケ・ボーリング・卓球・ビリヤードなど彼は全て高レベルでこなせ、一緒に遊ぶ先輩としては最高でしたね。
よく彼の住む新宿の家で酒を飲んでいたのですが
①俺は所得は低いが時給は∞
②会社は共産主義なのだから働いたら損
③働きたい奴なんて有り余っている。俺達は不要
等の名言を数々残しました。
正直私も彼とつるみ出してから労働のモチベーションが激減し、完全にやる気を失ってしました。
そうこうしている内に私も完全「戦略コンサル出身のエリート」から「経歴はエリートかもしれないが窓際族」へと転落していきました。
当然、解雇はされないように頭を使いました。その時のフレームを知りたい方は下記からどうぞ!
※窓際族になりたい方へ向けたコンテンツはこちら
一緒にナンパをしたり、ポケモンをしたりと彼と本当に青春を謳歌し、そんな日々が毎日続くと私も考えておりました。
しかし、ある時を境に彼が体調不良を訴えるようになってしまったのです。
彼の特定と名誉の為詳細は控えますがその約1年後、彼は病気で帰らぬ人になりました。
親友の死は私の人生観に大きな影響を与え、働くことの意味や人生の目的を考え直すきっかけになりました。
結論「自分の幸せを第一に考え、自分のやりたい事に挑戦しよう」という考えに辿り付き、会社を退職することにしました。
一生遊んで暮らせるお金を持っている訳でもなく、何か食っていける当てがあったわけでもないのですが、世の中が新型コロナウィルスに騒ぐ2020年の7月に勢いに任せてサラリーマンを辞める決意をしました。
その日の朝は妙に晴れていて、多摩雄さんが空から微笑みかけてくれているような気がしたのは、珍しく感慨に浸っていたのかも知れません。
フリーランスコンサルタント
フルリモカルチャーと共にフリーランスに
さて何の当てもなく退職を決意したえりまどですが、そんな矢先にとあるベンチャー企業からこんなお声をかけて頂きました。
「業務委託でいいから弊社でCMOをやらないか?」
そんなありがたいお声を頂いたのです。
「俺にそんな小難しい事できるのかな?」と正直自信はなかったのですが、折角のオファーなので快諾してみる事にしました。
私のようなコンサル出身者はフリーランスのコンサルとして独立することは決して珍しくはないのですが、まさか自分がそうなるとは夢にも思っていませんでした。
しかも世間はコロナの影響でフルリモワークが一般的になり始めたばかりで、家にいながら複数の案件をこなす事ができたため、私としては天職でした。
そしてフルリモワークであれば世界中のどこからでも仕事ができることに目を付け、憧れの沖縄移住を決意し実践することにしました。
過去に実家が沖縄であったことがあるため、土地勘はありましたし、何より独特のミックスカルチャーが大好きなので勢いに任せて移住しました。
本当に我ながら決断力の速さと行動力だけはすごいな感心します(まああまり深く物事を考えていないというだけの説もあります。コンサル有るまじきですね)
フリーランスとしてのマネタイズに興味がある方は以下をお読みください
美しき島沖縄に
さてさてそんなこんなで2021年の年末にえりまど君は沖縄に移住を果たしました。ビジネスのしやすさや住みやすさも考え、取り合えず那覇に移住しました。
最初は友人ができるか不安でしたが、えりまどは酒がべらぼうに強いので休みの日は繁華街まで足を運び、現地調査も含めて飲んでは周囲の人に声をかけて交友関係を広げるように努めました。
その結果もあり、現地の友人も沢山でき、とても楽しい沖縄ライフを現在も続けることができています。
今後も仕事等で一時的に他県や海外に住むこともあるとは思いますが、えりまどは基本的には沖縄を中心に活動したいと考えております。
そんな沖縄の魅力は下記noteから!
今後に活動方針
ここまで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございました!
私も一旦経営コンサルから身を引き引退しますが、今後は主に以下の事に従事して行こうと考えています。
①noteでの有益コンテンツ販売
②経営コンサル経験を活かした指導者としての仕事
私も35歳になり、そろそろプレイヤーの立場から、マネージャーとして下を育てたり、経験をコンテンツに活かしたりと、人様の役にたっていく立場へ移ろうと思います。
元々不器用で、社会人になった時に挫折ばかりしていた自分だから生み出せる価値があるかなと思い、そのあたりをコンテンツに活かしていきたいなと思っています。
最後に目の前の仕事が上手くいかず困っている全サラリーマンに伝えたい。
いつか絶対その悩みは解決します!
明日からの仕事も前向きに頑張っていきましょう!
えりまどより。愛をこめて。
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