六本木のスラムで古代コーカサス人のように暮らそうとしたOLの話
私が古代コーカサス人を目指すようになるまで
「職場からそれなりに近い」というだけの理由で住んでいた六本木の街は、暮らすには最悪の場所で、当時、私の住んでいたアパートは、古くて汚くて治安の悪い、スラムのような場所だった。
週末は特に最悪で、土曜日の朝には、朝日がきらきらと光る街道の植え込みに、ゲロにまみれた人間たちがゾンビのように倒れていた。
◇
職場の同僚たちは、どういうわけか六本木に完全適応していて、ある日、誘われて行った飲み会では、テキーラが300杯も出てきて、明け方には、割れたグラスの破片でいっぱいの床に、酔いつぶれた人々が死体のように転がっていた。
「この前の会では、オーパスワンを60本並べて一気飲みしたんだ」
誰かが、誇らしそうにそう言った。
◇
文明がどれだけ発展しても、人間にとって最高の娯楽は酒とセックスで、お金があっても一気飲みする酒の種類が変わるだけ。それは、あまりにも夢がなさすぎる事実だった。
そんなことなら、いっそ、なにもかも古代人のように暮らしたい。空があって、小川があって、草原があって、酒があって歌があって……。
ふと、いつか友人から聞いた旅の土産話を思い出した。
コーカサスって、すごくいいよ。空はどこまでも高く青くて、草原には野生の花がそこかしこに咲いて、夏にはベリーやスモモをたくさん摘んで、夜は自家製のワインを開けて、紀元前から変わらない方法で、何度も何度も乾杯するんだ。
その風景を想像すると、魂が風に乗って高原を駆け巡るようだった。
南コーカサスのジョージアでは、今でも8000年前と変わらない製法でワインを作り続けているのだという。8000年前のコーカサスと変わらない暮らしを、六本木のスラムにこっそりと紛れ込ませることはできないのだろうか。
「この家で、古代コーカサス風のワインをつくらなければならない」
私は、いつのまにか、そんな謎の強迫観念にとらわれるようになっていた。コーカサスに行ったことさえないくせに、古代コーカサスを盲信し、コーカサスに自分がかかえる問題のすべてを委ねようとしていた。
一言でいうと、私は、とてもとても疲れていた。
六本木のスラムからていねいな暮らしの極北へ
私は、いわゆる「ていねいな暮らし」がしたかった。
イメージは、今や伝説の暮らし系雑誌「ku:nel」(リニューアル前)だ。古代コーカサスの森の中で、風の声に耳を傾け、紀元前からつむがれる伝統のなかで暮らす……。私は、自分の目指す生活が、雑誌にのるような素敵なものであることについて、微塵も疑っていなかった。
ところが、実際にそのことを人に話すと、みな怪訝な顔をした。ある友人はこう尋ねた。
「どうしてそんなわけのわからないことを?」
どうやら、お笑い芸人の原始人生活的なものを想像されているようだった。
「そうではなく、ていねいな暮らしがしたくて…」
そう反論したかったが、古代コーカサスについてまだ何も知らない私には、その能力がなかった。
古代コーカサスについて調べはじめると、予想以上に文献が少なく、調査は難航した。今思うと、その時点であきらめるべきだった。なのに、私は、なぜか「やりとげてみせる…!」と思ってしまい、そのときから、私の無謀かつ怪しい研究生活がはじまった。仕事の休憩時間に発掘調査の資料を熟読し、休日には博物館で学芸員さんを質問攻めにした。
もともと、仕事のことを書いていた日記帳は、またたく間に古代コーカサスに関するメモ書きで一杯になった。業務上の備忘録と自己啓発書から引き写してきたような虚ろな警句の合間に、古代コーカサスの石器形状・出土品に固着した有機物の分析結果・家畜のDNA分析結果と、そこから推測される古代生活がなぐり書きされている。
それは、最大限に良心的に解釈しても「発狂したku:nel」であり、より率直にいえば、ほとんど狂人日記だった。
本気のワイン醸造は近代国家の否定から
古代コーカサス式のワインを作りたい。そんなことを言っている割に、私はそもそもワインの作りかたを知らなかった。コーカサス式を試す前に、まずは標準的な方法を試してみよう。そう思って調べはじめると、検索して5秒で圧倒的な壁にぶち当たってしまった。
酒税法により、無許可でのワイン醸造が禁止されているのだ。
とりうる選択肢は、以下の3つだ。
(1) 国家権力を奪取し、家庭でのワイン醸造を合法化する
(2) 国家と法治主義を否定し、アナーキーなワインをつくる
(3) アルコール度数が1%未満のワイン風飲料(合法)をつくる
つまり、本気の古代コーカサスを突き詰めると、国家転覆から始めなければいけなくなる。私は善良な労働者で、生活の気晴らしに古代コーカサス人になりたがっているだけなのに、どうしてこんなに厳しい事態になってしまうのだろうか。
私は、慎ましくも穏やかな小市民としての生活を捨てることがどうしてもできなかったので、妥協し、現実を受け入れて、アルコール度数が1%未満のワイン(合法)を作ることにした。
「なにかを始める前からすでに敗北している」という、私にありがちなパターンに、今回もはまりはじめていた。
ワイン(合法)を密造する
はじめてのワイン(合法)造りは不安だった。
理屈の上では、ぶどうの果皮に十分な酵母がついているので、ただぶどうを潰すだけで勝手に発酵してワインになるらしい。しかしそんな都合の良い話があるだろうか。雑菌が繁殖して、家がカビだらけになったり、食中毒をおこしたりしないのだろうか。実際、ネット上の自家製ワインづくりレポートを見ると、ほとんどの人が酵母添加や汚染を防ぐ容器の使用など、万全の衛生体制で醸造に臨んでいる。
「でも、古代コーカサス人には"菌"という概念自体がないはず…」
私は、単にワインを作りたいのではなくて、古代コーカサス人の生活を追体験したいのだ。近代人としての価値観を一度忘れて、古代コーカサス人の視点でものごとを考えるべきだ。
ただ、古代コーカサス人の視点で考えても「初めてワインを飲んで、作ろうと決意した人」は相当前衛的というか、狂っている感じがした。放置の果てに謎の液体と化してしまったぶどうを捨てずに飲んでいるだけでかなりのチャレンジャーなのに「飲むと精神に異常をきたし、次の日若干体調不良になる」という怪しい効果を体験した上で作ろうとするのは、どうかしている。
ワイン発祥の地コーカサスで、初めてワイン造りに挑戦した人の勇気にならい、私も酵母の添加はなしでいくことにした。
古代コーカサスでは、素焼きの壺でワインを醸造するらしいのだが、まずは練習のため、現代風の容器で試してみることにした。
ぶどうを潰して、常温で放置するだけ。
その日の夜には、ぷくぷくと泡が立ち、次の日の朝には、部屋中がぶどうの甘い香りでいっぱいになっていた。一口味見をすると、甘くてかすかに発泡したおいしい液体が喉をとおりすぎていき、鼻腔に繊細な香りが広がった。
始める前、あんなに不安がっていたのはなんだったのだろう。初めてワインを飲んで作り始めた人を狂人呼ばわりしたのは完全に間違っていた。こんなにおいしそうな香りがして、実際おいしい飲み物を、作ろうとしないほうがどうかしている。世の中、やってみないとわからないことだらけだ。
少しずつ発酵するぶどうと一緒に生活する日々は幸せだった。
夜、帰宅すると、玄関まで満たされたぶどうの香りに包まれる。リビングで、少しずつ変化していく果汁の味と香りを確認して、一息つく。真夜中、寝室の向こうで、発酵して容器から漏れる空気が、キュルル、キュルルと微かに鳴るのがきこえる。
ぷくぷく発酵して複雑なよい香りを放つぶどうが家にあるだけで、こんなに幸せになれるなんて知らなかった。かわいい小さな生き物と一緒に暮らしているような気持ちがする。子どもの頃、実家で猫を飼っていたころの、遠い記憶を思い出した。
数日後、潰したぶどうは、微発泡して甘やかな芳香を放つなめらかで美しい飲み物になっていた。旅行先で買った牧場のチーズを合わせて飲むと、衝撃が走った。
「……!!!!おいしい……!」
概念としての「幸福」が、突如鼻腔で現実化したような味だ。無限の愛、善、平和……そうした概念が喉に流れ込んでくる。今まで、ワインを飲んでそんな経験をしたことはなかった。自分で作り、毎日そばにいたから、特別なのだろうか。もしそうなんだとしたら、それって完全に「愛」なのでは?
まさか、ワイン作りで、愛の意味を知ることになるとは思わなかった。
古代コーカサスワインへの道
古代コーカサス風のワイン造り最大の特徴は、その熟成方法にある。地面に埋めた素焼きの壺に潰したぶどうを果皮ごと入れて、半年かけてゆっくりと発酵させるのだ。今度こそ、古代コーカサス風のワイン造りに挑戦したい。
私は当初「素焼きの壺くらい、どこにでも売っているだろう」とたかをくくっていた。しかし、実際に探し始めると、思いのほか見つからない。素焼きで蓋付きという条件を満たすものが売っていないのだ。南コーカサスのジョージアでは、今でも職人が手作業で壺を作っているのだという。私もそれに倣い、土器づくりから始めるべきなのだろうか。
「でも、そんなことをしたら、本当の古代人になってしまう……」
「雑誌にのるようなすてきな暮らし」を目指す以上、どこかで文明人としての矜持を保つ必要がある。「土器は違う」と私の中の松浦弥太郎が叫んでいる。
にもかかわらず、その日の夜には、私は土器の作り方を調べて、土器を焼くための焚き火が可能な場所を検索していた。土器が作りたくなってしまったのだ。
「ていねいな暮らし」だと思ってはじめたものが、気がつけば「お笑い芸人の原始人生活」に歩みを進めはじめた瞬間だった。
真夜中に土器をつくる
深夜1時、私は、仕事用のスーツを着替えもせずに、無心で土をこねていた。
粘土は、amazonで買った。真の古代人はネット通販なんてしないと思うが、そもそも、真の古代人はスーツを着て出勤なんてしない。私が働くコンクリートジャングルには、仕事帰りに合法的に粘土を掘れる場所なんてないのだ。
真夜中、仕事帰りに土器を作るというのは、実際にやってみるとかなり非現実的な体験だった。どこか反社会的というか、労働者として相当非行が進んでいるおもむきがある。
私の職場では、例えば、女性を泥酔させてホテルに連れ込む行為は社会人としてアウトな行為として認識されていなかった。でも、スーツ姿で土器を作るのはかなりギリギリな感じがする。バレたら、立身出世が遠のいたり、産業医との面談をセットされそうだ。
それを考えると「社会人」とか「社会性」って一体なんなんだろうという気持ちになる。そんなことをいちいち考えてしまう性格だから、真夜中に土器をつくるハメになっているのだろうか。
粘土は柔らかく、ひんやりとしていた。
思っていたよりも壺の形を作るのは難しかった。何度も途中で歪んでしまい、そのたびに作りかけのものをぐしゃりと潰し、ふたたび整形をして表面を整える。それを何度も繰り返し、ようやくひとつの壺が完成した。
自分でつくった土器はかわいかった。やわらかくて、なめらかで、ふにゃふにゃと弱くて、生まれたての赤ちゃんのようだった。形は不格好だけれど、そこもまたかわいくて、いつまでも眺めていられる。
あまりのかわいさに、思わず、ぎゅっと抱きしめたくなった。自分で土器を作ることが、こんなに幸せで愛を感じる行為だなんて知らなかった。ワイン造りのときにも思ったけれど、人生はわからないことだらけだ。
私は、そっと土器を抱き上げて、ベランダの近くのひなたに置いた。
もうほとんど朝になっていて、私は仕事にいかなければならなかった。
群馬の山奥で原始キャンプをする
早く土器が焼きたかった。
しかし、焚き火を使った土器の焼成は、仕事帰りにコンビニ感覚でできるようなものではない。どの市町村にも直火での焚き火を禁じる条例があるからだ。
陶芸用の窯を使えば早いのだが、8000年前のコーカサスに、陶芸用の窯が存在していたのかよくわからない。この頃の私は、すっかりラディカルな古代主義者になっていて、「古代に存在しないものを使いたくない」という、文明フリーな技術を求める思想を先鋭化させていた。そのため、焚き火を使った焼成にこだわっていた。
群馬県の山奥にあるキャンプ場で、野焼きをさせてくれるところが見つかった。「キャンプ」という響きに浮かれてしまい、知人を手当り次第に誘った結果、なんと6人もの人が土器を作りたいと言ってくれた。
キャンプの参加者は、全員がささやかに狂っていた。ある夫婦は「東京23区で土器が出土した箇所を地図上でプロットし、粘土が採取可能な場所を突き止めてきました」と言い、成形済の土器を準備してきていた。私は粘土探しをすぐに諦めてネット通販に頼ってしまったというのに……。彼らの、常に本物を求める姿勢に衝撃を受けた。
別の男性は「古代コーカサスにはなかったかもしれませんが」と言いながら、実家の畑で取れた綿花と糸紡ぎを持参し、布の自作を試みていた。どうして、この人たちは、こんなに古代慣れしているのだろう。さすが「古代コーカサス人の暮らしを再現するため土器を作る」という謎の誘いに二つ返事で応じただけある。
彼らの勇気に敬意を表して、会の名称は「善良な市民のための反社会同好会(仮)」とした。
景色が良いことで有名な渓流沿いのキャンプ場では、絵に描いたようなアウトドアファミリーが、数々のギアをコーディネートして洒落たキャンプサイトを作っていた。
そんな中で、私たちだけが、山に入って薪を拾い、火起こしをして直火を囲むという古代スタイルを貫き、平和なキャンプ場に一抹の怪しさを添えていた。火を護るために野宿した人もいたため、かなりの「本気感」が出てしまっていたと思う。
夜は、今までの研究成果を活かして、古代ジョージア料理を作った。古代ジョージア料理の記録が残っているわけではないので全て空想だが「8000年前のコーカサスに存在していたと思われる食材だけを使う」というルールで作ったら、こんなメニューになった。
古代ハルチョー(肉のスープ)
ムツヴァディ(串焼き)
果実とハーブのサラダ
無発酵パン
焚き火に土鍋を放り込むという古代スタイルの調理をしたので、焦げないか不安だったが、結果としてはなんとか美味しく作ることができた。包丁を使わざるを得なかったのが心残りだ。次回は石器で料理したい。
キャンプは、信じられないくらい楽しかった。ある人は土器をこね、ある人は自分で焼いたオカリナを吹き、ある人は糸を紡いでいた。
焚き火は完璧な存在だった。暖かく、心地よく、見ているだけで心がはずみ、土器も焼けるし料理もできる。かつて、コーカサスの人々は、炎に祈りを捧げる古代宗教であるゾロアスター教を信仰していたという。古代の人々も、こんな気持ちで炎を信仰していたのかな、とぼんやり思う。
いつまでも揺れる炎を眺め、風にふかれて、ワインをときおり口に含む。
目をつぶると、六本木のベッドルームで何度も思い描いていた、古代コーカサスに自分がいるような気がした。
おわりに
その後、ぶどう狩りでとったぶどうと、手作りの土器でワイン(合法)を作りました。
ワイン(合法)は、お酒ではないけれど単なるぶどうジュースとも違う、なめらかで毛並みの良い猫のような美しい飲み物で、それがリビングにある生活はとてもすばらしいです。アルコール度数1%を絶対超えないようにする、という鉄の意思がもてるひとは、ぜひ試してみてください。
※ 善良な市民のための反社会同好会(仮)について
古代コーカサスキャンプがきっかけで、私たちは「善良な市民のための反社会同好会(仮)」として、定期的な活動をするようになりました。
※ 第一回活動の会誌
善良な市民のための反社会同好会は、善良な市民として社会生活を営みつつも、どういうわけか社会に適応できず、社会性が身につかず、あるいは社会への抵抗が捨てきれない市民が、日本の現代社会から遠く離れた生活文化=「反社会」を探求する同好会です。週末にたのしく社会から遁走し、現実逃避することを目的としています。
善良な小市民による軟弱な団体なので、社会に反旗を翻したり、国家転覆を目指す活動は特にしていません。むしろ、「名前がやばすぎて誤解されそう」という理由で、法の専門家や行政への確認をふまえ、過剰なまでに法令遵守とコンプライアンスを意識した活動をしています。
現在の活動領域は以下のとおりです。
(1) 原始
消費社会につかれた心をいやし、資本主義システムから逃走するために、原始のテクノロジーでものをつくりあげる活動をします。
(2) 異文化
古代文明、部族社会、社会主義など、私達が現在暮らしている社会とは異なる社会システムを学び、生活を再現することで、何らかの活路を探します。
あなたも、突然、善良な市民のための反社会同好会(仮)のメンバーから、突然の勧誘を受けるかもしれません。そのときは、一緒に反社会を楽しみましょう!