私が実現したい「愛のパートナーシップ」とはどのような関係性か②
自分の気質について振り返る
コミュニケーションに対するストレス
前回からの連載でのテーマはこちら。
前回の記事で、
ひとみちゃんからこんなお題をもらっていた。
人生において
「人に対して支配的な自分、働き詰めで生活や相手と向き合わない自分」
がいたことに改めて気がつき、その後、毎朝内観を繰り返していたところ、ふと気がついたことがある。
それは、私は、
子どもの頃から、
人とのコミュニケーションに対して
過剰にストレスを抱えていて
対話することを
諦めていた・逃げていた。
ということ。
(それはおそらく現在進行形)
「どうしていいのか、わからない。」パニックでヒステリックと支配的な関係性を生み出していく
幼少期から、第1回離婚くらいまでの間は、
おそらく自分自身が
コミュニケーションの齟齬によるフラストレーションで
「支配的に」「ヒステリック」に、
問題と相手に対して
「力技で」どうにか事を収めようとしてきたと思う。
問題をほぼ相手のせいにして、自分を顧みず
自分はどんどんとモンスター化していった。
これは冷静に考えても正気の沙汰ではなかった。
人に嫌な態度を取ってはいけない。
暴言を吐いてはいけない。
暴力を奮ってはいけない。
無視してはいけない。
バカにしてはいけない。
圧力をかけてはいけない。
家族だろうと、恋人だろうと、友人だろうと。
親だろうと、通りがかりの人だろうと、後輩だろうと、発注先だろうと。
人の尊厳をそんな風に自分の都合で踏み躙ってはいけないのだ。
冷静に考えれば、当然のこととして理解できるはずの
あたりまえなことなのに、できていなかった。
そうして
嫌な態度を取らないにしても、
うまく伝わらないからと笑って誤魔化して
冗談を言う能力だけメキメキと付けて
相手を笑わせて問題から逃げていた。
(内心で相手をバカにしてマウントを取って回避したり
茶化して回避したりを常套化させながら・・・)
結局、相手とトラブルを起こしがちになり
継続的で深く心地よく安心した人間関係を構築することが全くできてこなかったのだ。
トラブルを起こすたび、思考停止させてヒステリックにお酒に逃げていたように記憶している。
本当は人と愛で繋がりたい
という想いがあるが故の葛藤
その後
ややこしいことに
私は本来「世界は愛でできている」という信念を
曲がりなりにも持っていたために、精神と身体に歪みをきたした。
自分が信じていることを行動として顕せない
ダブルバインドに自分自身が苦しめられることになる。
毒づき、暴力的に生きてきたくせに
中身は人間が大好きで、優しい世界で生きていきたかったのだ。
それまで自分が吐いた毒は、
自分の耳にしっかりと記憶され
じわじわと自らを蝕んでいった。
自分が奮った暴力は、
自分の脳裏や瞳にしっかりと焼きつけられ
じわじわと自らを蝕んでいった。
絶対にやってはいけないことをした。
という記憶によって
断罪・贖罪の意識を強く持ち、
2度目の結婚では、支配的な自分から、全くの逆方向に振り切って
相手に尽くしまくる、自分の気持ちをとにかく抑圧し、封じ込めるという意識を強く発達させて、精神と身体に歪みをきたした。
メタ認知がコミュニケーション構築の鍵になる
コミュニケーションを諦めて、
「自分のせいじゃない」と逃げ回る
もしくは
「自分のせいだ」と逃げ回る
そうではなくて
人との関わりの中で
すべてのカードを俯瞰できる思考回路を育てる必要がある。
誰が悪い、誰のせい、ということではなく
ただ、起きた出来事を、目を見開き、恐怖に身体を縮こまらせて解釈するのではなくて「メタ認知※」を働かせ、フェアに解釈することの重要性をしっかり理解しなくてはいけない。
第一回離婚時。
あのとき冷静に
「どうしたら、コミュニケーションをスムーズに取れるようになるのか」
を分析して、訓練して、問題解決できていたら、
ヒステリックになることも、支配的になることもなく
また自分を歪めることなく
人と平和に対話することができていたのではないか。
相手の未来に想い馳せ、相手のために、自分のために、人生の舵を切れたのではないか。
2度目の結婚においても、冷静に相手との人生の方向性について対話することができていたんじゃないか
そんな風に思う。
自分が圧倒的に生きる力をつけいてたら、
コミュニケーションでのストレスを凌駕できたのでは?
そして同時に。
この1ヶ月のエッセイ執筆の中で、大きく気づき、今その修正のために必死に奔走している、
「自分の人生を充実させる」「自分の仕事の実力を確実につけていく」
ということが、パートナーシップを安定させるためにも、必要不可欠なことだったのではないかと考えている。
次回に続きます。
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