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田中和将2万字インタビューまとめ(後編)

前回、田中さんがGRAPEVINEに出会うまでの来歴をまとめた。今回は、GRAPEVINEのメンバー募集の貼り紙を見つけるところから。

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「ちょっと黒い音を入れつつ、オリジナル・ロックをやりたい。当方、スライ、ニール・ヤング好き」――。

その貼り紙を見た田中さんは電話をかける。相手は当然、ダーリーこと西原誠だ。声の印象は「低音でバフバフ(笑)」ながらも、温かい感じだったため「いい人や!」と決め込んだそうだ。

ここからは、『ROADSIDE PROPHET』リリース時の朝日新聞デジタルのインタビューも含めつつ、時系列を整理していく。

「温厚で理解のある」西原さんの存在で、GRAPEVINEに合流した田中さん。しかし当時はまだバンド名も付いていないような状態。亀井さんの加入前だったのでドラマーもおらず、キーボードは「全然弾いてくれない」という状態で、活動は頓挫していたそうだ。

ちなみにこのキーボーディストのM1は西原さんが勝手に売ってしまい、その後連絡がとれなくなっている。

そのような状況で、「いなたいロックへの未練と、ボーカルとしてのプレッシャー」から、かの失踪事件が発生する。とはいえ、たまたま電話したら留守電だっただけだそうで、「正しくは失踪したわけではなく、連絡を取らなくなっただけ」と田中さんは語っている。

GRAPEVINEを去り、ほかのバンドを探したり、一人旅したり、バイトをしたりする田中さん。そのなかで、パイナップル・アンド・ザ・モンキーズを復活させる。

一方、西原さん・西川さんの2人に戻ったGRAPEVINE。この時期に、友人のライブで見かけた亀井さんを西原さんがヘッドハンティング。新しいボーカルを探す動きもあったが、西原さんからの「やる気があったら戻っておいで」という内容の留守電(2万字インタビューでは「新しいボーカルを何人か試したが、どいつもこいつもダメだせ」とも)をきっかけに、田中さんも再び合流。ようやくメンバーがそろう。

田中さんは、パイナップル・アンド・ザ・モンキーズをやり始めていた手前、GRAPEVINEにすぐ加入するのは後ろめたく、最初は話し合いを兼ねて飲みに行くところからだったと話している。

このころ、工場の契約社員として働き始めていたが、そこで貯めたお金で大阪市東淀川区上新庄に引っ越しをする。しかし、ようやく順調になってきた音楽の面とは異なり、生活は「ボロボロ」。「原因不明のちょっとした鬱病みたいなんになってしまった」と話している。バンドは一生懸命やるが仕事には行けなかったと言っているので、近年で言うところの「新型うつ病」(会社にいるときだけうつになる症状など)だったのではないかと思われる。

当時の彼女からは常々「仕事行きぃや!」と怒られていたと言う。彼女は梅田のアパレル店で働いており、出勤前には田中さんのアパートに立ち寄り、田中さんがきちんと仕事に行ったかを確認していた。そのため、彼女が来る前に起きて、マンガ喫茶へ行き、ピラフを食べながらマンガを読んで時間をつぶしてから自宅へ戻るというルーティンだったそうだ。

仕事に行かないため、給料は月2万円ほどのときも。週2回のリハーサルスタジオ代、そして夜遊びもしていたために、このころから「むじんくん」で借金を始める。取り立てなどはなかったが、「どんどん借金ばかりがかさんでいって、寝る前にふと借金のこと思い出して、冷や汗かいて寝れなくなった」と話している。ちなみに、この借金は東京に出てきた時点で「半分以下にはなってたと思う」とのこと。

生活を立て直そうと一念発起した田中さんだが、彼女に愛想をつかされてフラれてしまう。しかし「ここで落ち込んではいけない!」と、深夜のカラオケボックスで働き始める。夜働けば夜遊びせずに済み、リハがある時はそのあとにバイトを入れることもできたからだ。

ただ、彼女にフラれたばかりだったため、女性関係は荒れたと言う。カラオケボックスのアルバイトでは、深夜帯のため店長がいないことも多く、女性客の部屋に入って遊んでいたらしい。

フラれたばっかりでヤケになっているところがあるから、「女は敵や!」と思ってるじゃないですか。だからもう「ひどい目に遭わしてやる!」っていうような感じ

バンドのライブは月1回。拠点は梅田にあるバナナホールだった。当時、関西のインディーズバンドにとっては一種の登竜門的ハコで、年間約6万人が訪れる人気ライブハウスだったそうだ。2007年に閉館したが、2017年から場所を変えて営業している。新しいバナナホールにも、かつて柵代わりとして使われた樽が置かれている。

バンドの姿勢はとにかく真面目で、このころ100曲ほど録音したそうだ。ライブのギャラはすべて“バンド貯金”へまわし、そのお金でちゃんとしたスタジオを借り、デモテープを制作。それをレコード会社へ送り、亀井さんいわく「僕らのほうが(レコード会社を)選べるぐらいの感じになった」そうだ。そしてバナナホールでのライブが実際デビューにつながることになる。

高校を卒業してからの田中さんは、何の孤独感かわからない“人生よりな孤独感”を意識するようになっている。集団生活は苦手だったものの、ルールのなかで生活できる安心感はあったと言い、一人暮らしを始めてしばらくしてから「生活っていうものの重苦しさっていうのが急にガーッと来た」と話している。

ただ、決して生活や人生の“やるせなさ”を憂いているわけではなく、田中さん自身も「俺はデカダンやない」と話している。デカダンは19世紀の西ヨーロッパで起きたムーブメントで、特徴はこんな感じだ。

デカダン派の特徴は、根深い猜疑心と悲観主義、保守主義である。(中略)衰退感を感じており、底ごもり、中世の優雅な世界観に対するノスタルジアを抱いていた。――“Artpedia 近現代美術の百科事典”より

決して悲観はしないがやるせなさに満ちた生活のなかで、「絶対外されへんぞ!」と思っていたのがGRAPEVINEだったと言う。

やっぱり言葉遊びとか曲を作ったりすることが助けにはなってたと思うんですよ。だからバインはしっかり続けていけたんやと思うんすよね。

2万字インタビューのライフヒストリーパートはここで終わっている。これ以降は、田中さんの価値観についての問答が続く。

◆歌詞について

共同意識みたいなものがすごい気持ち悪いんですね。「みんなが同じこと思うわけないじゃないか!」と(中略)俺は俺で自分に責任をとりたいので。自分としての責任をとるために歌詞を書く感じ。
昔っから頼れるところがないっていう環境ではあったんで。(メッセージ性のある歌詞を)嫌悪しないフリをしてるんですけど、たぶん心のどっか嫌悪してるのかもしれないですね。

◆"光"について

もう既に希望の光は十分蔓延してる気分なんすよ。「別にそんな希望しなくても、もうこんなに豊かじゃないか!」って感じの気分です。
もう既にどこを向いてもすごい明るいんですよ。全然不安なんてない感じなんですよ。それが逆に不安っていう感じかな。

◆生きていくことについて

現実が目の前に突き付けられることが多かったですからねえ。ただまあ…そんなもんは人の人生にいっぱいありますからねえ。
1回堕落して生きるのをやめたんであれば、堕落した分、責任をとらなければいけない気がするんですよ。(中略)自分としてそうしないと許せん感じですね。
普段、生きてて悲しいっていう感触がいまいちよくわからないんですよ。「やるせなさ」とか「もどかしさ」に変わってしまうんですよ。(中略)「悲しむより結論だせよ! このもどかしさや、このやるせなさは一体どうすんねん!」っていう感じのほうが強い。
今の気持ち悪さっていうのは、ささいな幸せでなんとか救われてるっていうか。「ささいな幸せがあれば、それでいいや」みたいなとこがあるんですよね」

◆音楽について

やっぱり音楽作ってて救われることはないっすよ。救われてる部分はいっぱいあると思うんすけど。

◆孤独について

独りやと思ってたのが「わりとそうでもないなあ」と思い始める時期が人間にはあるんじゃないかなあと思って。「独りじゃないんじゃないかなあ」と思うと、「結構強いもんやなあ」と思いますね。

◆恋愛について

恋愛に関しては被害妄想的なとこがちょっとあるのかもしれない。(中略)1回信用してしまうと、もう手放しで信用してしまうんで、それが裏切られたときはものすごいしんどいんですよ。(中略)……やっぱ怖いんかなあ。基本的に近しい人がいなくなるのが怖いのかもしれない。考えてみりゃ、周りの近しい人は僕の前からどんどんいなくなってるんですよ。

2万字インタビューのまとめは以上。

#GRAPEVINE #田中和将 #2万字インタビュー

P.S. 2万字インタビュー当時、田中さんは25歳。今は45歳になられたので、もう20年経つんですね……。この20年分の2万字インタビュー、シミコーさんやってくれないかな(媒体も会社も違うけど)。