見出し画像

責任回避のための自由意志

 パターナリズムが批判された結果、患者の自由意志が尊重されるようになった。それがいつの間にか、患者家族の自由意志を尊重する傾向が生まれた。
 

 自由意志の尊重が、責任を回避するために使われることがある。
つまり、医療従事者が意思決定に伴う心理的負荷を回避するために、情報を客観的な形で提供するのだ。

 具体的な方法や手段、メリット、デメリットについては説明するが、医師としての推奨については、一切話さないということだ。

 認知症高齢者が食事をとれなくなった時の説明の仕方一つをとっても、方法の具体的な説明だけを行うケースがある。
例えば胃ろうに関する説明は、下記のように行うこともできる。


「胃ろうとは内視鏡で胃に穴をあけることで、内視鏡で造設するのが難しい場合は、開腹手術になることがあります。栄養剤や薬剤を胃ろうから投与できるようになり、嚥下機能が低下した状況でも、栄養を摂取し、薬剤を安定して投与できるようになります。一方で、胃ろう造設自体に出血、感染、自己抜去のリスクがあります。胃瘻造設を行いますか?」

一方で、次のような説明もできる。

「嚥下機能が低下したときに、皮膚から胃に穴をあけて、栄養剤を投与する方法があります。しかし、〇〇さんのように、認知機能が低下したご高齢の方では、胃からの逆流したものが肺に入り込むことがあります。だから、誤嚥を防げるわけではありません。

また、栄養を投与することはできますが、それが長生きにつながるわけではありません。時々、自分で胃ろうを抜いてしまう方がいます。〇〇さんは今まで点滴を抜いたり、ベッドから降りようとして行動制限が必要になったこともあるので、胃ろうを抜きそうな場合は、胴体にベルトをまいたり、手袋をしたりして、胃ろうを抜かないようにしないといけないかもしれません。というか、たぶん必要になります。
まとめると、長生きにつながらない手術のせいで、体をしばられる可能性がそこそこ高まってしまうわけです。
 一般的に言えば、多くの人はこのような状況を望まないと思います。
私はおすすめしません。ほかの方法としては…」

 患者家族の意志決定を尊重するために、中立的な説明をするように、と言われることがあるが、中立的とはなんだろうか。どの内容から先に説明するかでさえ、意思決定に影響を与えるなかで、恣意性は排除できない。

 医師の仕事は何よりも、医療行為に関する説明と意思決定の支援で、特に本人、患者家族の理解力が乏しい場合には、十分な支援が必要なはずだ。

 ある医療行為をする場合、それによって起きることをある程度具体的に想像できないと、何かを決めることはできないだろう。
 それに、意思決定の責任をある程度医師側も負うことで、患者家族の心理的負担は減ってくるのではないか。これは僕らの業務範囲に含まれている。

 急変時の対応を選択式で決めさせることもある。最近そのようなツイートを見かけることがあった。点滴を希望するか、経鼻胃管を希望するか、胃ろうを希望するか、中心静脈栄養を希望するか、というチェックリストを見た。
 子のチェックリストによって、患者の希望を書面で確認したから法的な対応として適切だ、と医療従事者が信じることができる。しかし、あなたが自由意志で決めたことです。だから私たちはそうした方針で治療します、という責任回避の匂いも感じる。

  訴訟への恐れは、医療という体験を不快なものにする可能性がある。
侵襲的な医療行為を行い、例えば胃ろうの自己抜去など、本人にとっても、家族にとっても医療従事者にとっても苦痛を伴う出来事が起きたとしても、家族が希望したので…と主張することができる。

 法的な責任を回避しようと努力していて、病気を良くしようと努力しているかがはっきりしない場合、医療不信は生まれるだろう。

 そして、信用されていないと感じれば、さらに防衛的な医療を行い、リスクを背負わないよう、患者や患者家族に意思決定の責任をゆだねるようになるだろう。

 そうやっている限り、人生の喜びは手に入らない。なぜなら本当に生きるというのは、リスクを背負うことだから。
 

まとめ
パターナリズムが批判され、意思決定が患者自身に、続いて患者家族にゆだねられるようになった。

中立的な説明なんて実際には存在しない。

意思決定支援は医師の重要な業務だ。

責任を回避することで、不信感を向けられるようになり、さらに責任を回避するようになる。

本物の人生は、リスクを背負うこと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?