どのくらいの変化を人生において許容させるか
ある能力・資格を身に着けたら能力は安泰、という要素はある程度ある。
医師免許があればできる仕事、というのは確かにあるので、それをこなしていけばそれなりに収入も良い。
大学に行けば、医師免許を取れば、人生は安泰だと考えて進路を進めてきた人たちはわりかししんどそうだな、という感覚はある。
とはいえ変化し続けなければ生き残れない環境も過酷だ。
小説家や漫画家、ミュージシャンとして生きることは非常に大変だろう。
よく、一握りの人しかプロ野球選手やミュージシャンにはなれないのだから、そうしたことをやるのは無駄だ、と考える人がいる。
なるほどそれは合理的だろう。しかしそれを聞くたびに、僕はあるエッセイを思い出す。
端的にまとめると、体制を打倒するために週40時間無償の新聞記事の執筆や発行に従事しながら大学の授業をこなす能力は、資本主義国家で上手くやっていくために必要な資質なのだ。
もちろん大学生活を行いながらの片手間では体制を打倒することはできない。というか、本腰入れてフルタイムの反体制活動家になってもそれをやるのは難しいだろう。でも、反体制活動を真剣にやることで副産物的に磨かれる能力というのがいろいろあるのだ。
これと同じで、何時間も楽器を弾いたり、野球を熱心に練習して自分の体の動きを学んだり体力をつけることは、楽器がうまいとか野球がうまい、以外の部分も底上げしてくれる。ミュージシャンになろうと思ったら、野球選手になろうと思ったら本当に強度を高めて努力しなければならない。そこそこにやっておく、というのはありえない。
このツイートは結構思い当たる節がある。
公立高校は割と部活必須だったり、いろんな行事があったり、授業のカリキュラムに結構受験で使わない科目が多かったりして、まあなんていうか無駄が多いんだけど、それが結果的に色々なことを並行して、濃淡をつけて実施する能力を身に着けることに繋がっている気がする。
僕の大学時代の何人かの知り合いは私立有名進学校出身だったけど、学校の授業終ったら高校一年生から塾通いをするのが普通だし、そのために部活は適当にやるのが基本だった、と言っていた。
受験勉強にトップスピードを乗せるなら私立進学校のスタイルは合ってるけど、長期的に仕事をやっていく能力という漠然とした能力を磨く意味では、確かに公立進学校に行くことに意味があるんだろうな、と。