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詐欺師に騙されやすい超高齢者は当然医療にも騙されやすい
さて、高齢者は詐欺の被害にあいやすい。
これを見ればわかるが、2020年において、詐欺被害者の40.6%は70歳以上だ。実際、これだけオレオレ詐欺対策が必要といわれているのも、高齢者が騙されやすいことを裏付けている。
さて、90歳を超えて健診を受ける方がいる。
しかし90歳の高血圧や糖尿病、脂質異常症を治療すべきかの明確な証拠はない。
つまり、健診を元にした介入は無意味でお金だけかかる可能性が高い。
というか、あらゆる年齢で生活習慣病に関する健診の利益は示されないので、90歳の健診は害のほうが大きいだろう。
まあ、かりに害があったとしても自己負担は少ないし病院は収益を得られるわけだ。
次に、認知症について考えてみよう。
attending alone兆候という概念があって、一人で認知機能が心配で病院に来院する患者さんは、その行動から認知症の確率が低いことを示唆する兆候だ。
本当に認知症がある場合は、通常病識がないので、家族などに連れられて来院する。
だけどもの忘れ外来に来た以上MRIや心理検査などを受けることもある。また、脳ドックも受けるべき明確な証拠はないように思うが、うっかり脳動脈瘤など見つかると突然死のリスクがあると言われて、年齢がいくつであっても延々MRIがフォローされたりする。これもMRIを稼働させて利益を得る方法としては有効である。
いつ死んでも大往生だと思える年齢や社会環境になれば特段医療を受ける意味はないように思えるが、死の恐怖と健康への信仰は医療を求めさせる。
また公的機関や病院やメディアも医療を受けることの意義についていくらでも繰り返し語る。
ある意味で僕らは医療のプロパガンダにどっぷりと使っているわけである。
こうした状況で年齢という前提条件のもとに医療の意義を考えて自分に必要かどうかを自分の頭で判断するのは難しい。
高齢者はなおさら難しいだろう。
僕らの罪深い部分は、宗教の役割が小さくなったこの社会において、健康を求め病気をおそれる価値観をばらまいたうえで、それを沈めるための医療を自己負担1割で提供していることだ。
ときに医師は司祭の役割を求められていると感じるが、その役割を引き受ける医師は少ない。
というか、口伝で受け継ぐ医療倫理は基本的に、医師は中立的な情報提供者であり、患者や家族の意思を尊重する、というものである。
しかし積極的な治療と緩和医療のどちらを先に話すかだけで中立性は崩れるのだから、医師は中立的な情報提供者にはなり得ない。
得られたデータは文脈をもとに解釈しなければ理解できないが、その解釈には主観が混じり、解釈しなければ情報提供にならない。
超高齢者医療では、乏しい効果の医療を、患者が重篤な状況で実施するかを、判断力・理解力が年齢とともに衰えた本人・家族に話すことになる。
そこではかなり単純化して話さないと、内容が理解されないことが多い。
つまり、話をする医師の価値観が無意識に強く表出される。
例えば肺炎に対して、2つの単純化した説明ができる。
1.肺炎が重症化して死亡する可能性が高いです。もともとの暮らしぶりを踏まえると、積極的に治療をしても脳の機能は低下し、会話が難しくなります。苦痛を緩和する方向で治療するのが一つの選択肢です。積極的な治療を選択する場合は気管挿管を実施して、人工呼吸器につなぐことですが・・・
2.肺炎が重症化して死亡する可能性が高いです。生命を救える可能性がある処置としては気管挿管をして人工呼吸器につなぐことです。人工呼吸器から離脱できなくても、気管切開をすれば長期に人工呼吸器を装着しながら長生きすることが期待できます。
後者で治療を断るのは難しい。
医師は死への恐怖を煽ることができるし、健康至上主義を助長することもできる。その恐怖を和らげるために、予防医療や健診を受けさせることができる。おまけにこれらの検査は、国家の強力な支援を受けている。
これは罪悪感を植え付けて、それ解消するための免罪符を売りつけていた司祭に似ている。
おまけに現代の医療従事者は、強力な国家の支援まで受けている。健診はしばしば無料だし、後期高齢者への予防医療は自己負担率1割だ。
医師たちの口から超高齢者への予防医療への疑念が口にされ、保険適応を根拠に薬剤が中止、減量され、公文書から健診による健康増進と医療費削減という決まり文句が消えて、高齢になって健康を希求し死を恐れることへの疑念があちこちで話される、そんな未来が訪れるべきだろう。
そもそも今まで医療が司祭の役割を進んで演じたことはないし、そう求められた記憶もなく、責任回避の成り行きでそうなってしまっただけなのだから。
では誰が司祭の役割を引き受けるんだろう。
本来的に言えば、老境に至り自らの価値を問い直して、状況に合わせて作り変えるべきなんだろうが、それができる人は多くはないだろう。
医師が司祭の役割を受け入れるだろうか?しかし医療を提供することで利益を得ている人に、医療を提供させないようにするのは、特にそれが法的なリスクと利益損失を伴う場合は難しいだろう。
残念ながら、一般的に医師は法的なリスクを非常に恐れるし、開業医や病院経営者は利益損失を嫌う。
公的病院に勤務する医師は、利益追求を求められていない。法的なリスクはあるが、それを分散する手段を持つ。
比較的勤務時間に余裕のある公的病院で、しっかりと話し合いをする体制を整えることは価値観を広める一つの方法なんだろう。
また、超高齢者に対する予防医療のエビデンスを示していくことも大切だろう。
ガイドラインとして予防医療や健診の差し控えについて記載されることが望ましい。
また、公文書から少しずつ健診や予防医療の決まり文句が消えて、その効果の乏しさが周知されていくべきだろう。
国家財政の窮乏化にともなって、価値観の劇的な変化は起きるから、その前に少しずつこうしたエビデンスを集積して、意味のある医療、残すべき医療のコアに関するコンセンサスを保つことが重要だろう。
そうしておけば、医療崩壊の痛みを少しは和らげることができるはずだ。