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高齢者が増えると医療が高額になるのは制度的・経済的要因と価値観に起因する。
年齢階級別一人当たり医療費を見てみると、100歳以上を例外として、基本的には高齢になるほど医療費が高額になる。
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この原因は、一人当たりの入院回数が多く、いったん入院すると長く入院するからだ。
なぜそうなるかといえば、老化が医学的な状況を複雑にして、介入の効果を乏しくするからだ。
死や老化を医療従事者も本人も家族もなかなか受け入れないからだ。
まず、医学的な側面から医療費の高騰化を説明し、その対策を考えよう。
診断
まず、認知機能低下は問診を難しくする。また身体診察もあてにならなくなる傾向がある。つまり、診断が難しい。
治療
次に治療について考える。
老化は全ての臓器の予備能を低下させる。
また、多数の合併症は、治療反応性を予測困難にする。合併症も出現しやすい。
薬は年齢と共に増える傾向にあるが、増えた薬の効用は乏しい傾向にある。
外科手術などの侵襲的処置は、合併症を発症しやすく、回復に時間がかかる。
つまり、治療が良い効果をもたらす可能性が下がる。
故に、上手くいく可能性の低い治療を上手くいくまで繰り返すか、どこかであきらめることになる。結果として治療期間も入院期間も長くなる。
また、気管挿管・人工呼吸管理、経鼻胃管による経管栄養、中心静脈栄養、末梢点滴といった、一時しのぎの処置がしばしば永続的になる。
また、介護に関しても、身体機能と認知機能低下は改善しないことも多いので、永続的になりえる。
退院調整
医師も家族も本人ではないので、治療の苦痛を感じることはない。
おまけに医療費は上限が2万円前後の定額使い放題で、年金の支払いがある。入院している間は自宅で介護する必要がなくなる。
こうした理由のほかに、一度入院すると身体機能が低下するために、自宅の状況を整えなければならないと多くの人が考えているために、調整するためにまた、時間がかかる。
また、実際には「介護が限界」という理由で家に帰れないことが入院時に確定しているのだけど、誰もそれを聞かないで、治療が一段落したところで聴取する医師や意向を伝える家族がいる。その場合はそこから転院調整や施設入所を進めることになる。
この間に感染症や心不全などを発症しさらに入院が長引くことがしばしばある。
しかし、急性期病院に入院していた方が家族にとっては得になることが多い。
手厚い医療を受けることができるし
入院費用も安いからだ。
つまり
高齢者の診断は難しく
治療に時間がかかり
退院調整にも時間がかかる。
故に入院期間が長引き、医療費が高額になる。
病院経営
次に医療者側の事情を考えよう。
まずなにより、病院にとって病床利用率が高いことは重要である。
なぜなら、病院の規模を維持するには、収益を上げる必要がある。
また、病院が必要であることを示す必要があるからだ。
高齢者の入院は、合併症が多く、介護度も高いので、収益になるかは微妙だ。
しかし、入院期間が長いので病床を占領してくれるので、病床利用率は高めてくれる。
これを根拠として公立病院は病床数を維持することができる。
そして公的病院の病床数が全病床数に占める割合は、2019年時点で
青森県44.7%、岩手県37.3%、山形県45.3%、鳥取県42.9%、島根県42.8%と高い傾向にある。
一方で、栃木県 9.8%、埼玉県 11.5%、茨城県 12.6%、東京都 15.3%、福岡県 12.6%、大阪府 15.7%と、都市部や関東近郊ほど、私立病院の割合が高い。
これは、地方ほど経営状態ではなく病床利用率で病院の必要性を判断する可能性が高いことを示唆する。
医療従事者
医師の立場からすれば、高齢患者をどのような目的をもとに治療するべきか、という価値について考えることが殆どない。
確かに急性期疾患であれば、心肺蘇生について聴取することはある。しかしそれは、「心肺停止状態になったときに蘇生を行うか」という限られた行為に関する質問である。
呼吸状態が悪化したときに気管挿管・人工呼吸管理を行うか
経口摂取ができなくなった時に経鼻胃管を挿入して経管栄養を実施するか
あるいは点滴を行うか
肺炎を再発したときに抗菌薬治療を行うか
身体機能の改善が見込めない時にリハビリを継続するか
と言った個別の領域に関して、判断の基準になるものではない。
それは本人と話し合うべき事柄だが、本人は判断力が失われていることが多い。
さらに言えば、家族の判断力も保たれているとは言えないことも多い。
90歳の患者の妻は88歳で、認知症というのはよくあることだ。
一方で子も自分が意志決定の主体である、と認識しているケースも少ない。
この複雑な状況でどのように話を進めるべきかを上級医から学ぶこともない。
なんなら、そういう話をしないのが基本だし、しないように指導されることもある。
ついでに言えば、年次が若いうちはそういう話ができない病院もある。
できないのであれば、学ぶこともない。学ぶとしても、かなり自己流でやるしかない。
高齢者医療に対して価値を重視したアプローチで治療法を決めるための知識へのアクセスが難しく、権限を得るのも時間がかかり、知識の習得機会も少ないのが現実だ。
家族
最後に、家族の事情を考えよう。
まず、90歳の家族に対する関心はどうしても少なくなる。お見舞いに行っても、話もできなければなかなか一緒にいるのも難しいだろう。
毎週、週に2回などお見舞いに来る家族であれば、治療の進捗や現在の様子を見続けることで少しずつ話を進めていくこともできるが、下手すると医師が家族に病状説明をするのは月1回程度、ということもありえる。
このような状態では状況の変化を家族が感じることは難しい。
また、入院が続くことが家計にとってはメリットになってしまう問題もある。
退院すると、より高い介護度とより複雑な医療処置を伴っているとなると、確かに家で見るのは難しくなる。
さて、この高齢者医療の無制限な高額化はどこから手をつければいいのだろうか。
これを考えた時に
健康保険
年金制度
と言った社会保障制度の根幹
病院経営
病院の評価方法
と言った経済的な側面
高齢者医療における価値の評価
といった、社会全体の物事の捉え方
そして
高齢者医療に関する知識と
アドバンスド・ケア・プランニングの実施
といった、知識の普及
この4つの方向を同時に進めなければ、変わらないだろう。
これは別に同時に進めて良い。むしろ、同時に進めた方が良い。
社会保障制度(年金と健康保険)
健康保険と年金に関してはシンプルで、入院が長引く場合身銭を切るような仕組みにすればよい。病院は永遠に入院できる場所ではなく、限られた時間で治療をし、その結果を受け入れることがしやすい仕組みを作るべきだ。
なぜかといえば病院は生活する場所ではなく、治療の場だからだ。
勿論精神疾患で病院でしか暮らせない人はいる。特殊な疾患で病院以外の場所で暮らせない人もいる。
しかし、年老いたために病院以外の場所で過ごせない、というのはどこか間違っているように思える。
「90歳で経口摂取ができないから家に帰れない」
のは経口摂取ができないからではない。食べれなくなった家族を大往生だと考えることができないからだ。
確かに価値観の問題もあるが、少なからず年金と健康保険の組み合わせによって高齢者が入院する限りお金を生み続けてしまうことの問題がある。
自己負担割合を増やすべきなのか、入院中は年金が減額・停止されるべきなのかについては色々な議論があるだろう。
しかし単に医療費自己負担額を3割にして、高額療養費をより単純な制度にして、医師と家族が医療のコストを理解しながら、どこまで治療するかを決めていくことが医療費の増大を防ぐ適切な方法に思われる。
病院経営と病院の評価方法
公立病院の価値は経営上の赤字や黒字、病床利用率ではなく、使用する費用と提供する価値を考えるべきだ。
価値なんて客観的に測定できない、という反論はある。
また、地域に病院が必要だ、という主張もある。
しかし、どの程度の規模の病院が必要なのか、何を目的として病院を維持するのか、という議論はあって然るべきだ。
90歳が91歳を迎えるための病院を維持してはいけない理由はない。
ただ、この病院は実質的には90歳を91歳まで病院で生きてもらうために存在している、という認識自体は共有されるべきだろう。
実際、超高齢者の誤嚥性肺炎を診療するのが主な役割、という病院はある。
こうした病院の存在価値は、入院で誤嚥性肺炎を治療した方が、施設や自宅で抗菌薬を内服して過ごすよりも、高い価値を生むという前提に依存している。
少なくとも、検証は必要だ。
高齢者医療における価値の評価
医療従事者は暗に生命至上主義を前提としている。つまり、どんな手段を用いても長生きはしたいはずだ、という考えがまずあって、状況に応じて治療の差し控えを行う、ということだ。
しかし実際に生命至上主義を望む高齢者はほとんどいない。
本人が認知症であって、意思決定が困難な時に、代理意志決定者の家族が親の治療方針として、生命至上主義を望むことは時に経験する。
しかし意思疎通がとれない100歳に生命至上主義を前提とするべきではないように思う。
その根拠は患者さんを診療してきて、85歳以上で生命至上主義的な価値観を持っている清明な患者さんを診療した記憶がないからだ。
というか、若い患者さんでも、自分はどんな姿になってでも生きていたい、とはっきりと明言する人は殆どみたことがない。
話ができるなら、家族と一緒に過ごせるなら、食事を食べれるなら、そうした具体的な理由や目的をもって長生きを目指す人はいる。
しかし、私の生命それ自体が大事だから、意識が回復する見込みがなくとも、長生きできるあらゆる処置をとってほしい、と話す人にあったことはない。
回復の見込みを捨てたくない、という人はいる。
元気になれると信じるから、できる治療をやりたいという人もいる。
生命至上主義はデフォルトの前提条件にするべきではないように思える。
90歳に、家族と連絡がつかないからできる限りの医療処置はやって延命に努める、という判断がデフォルトになるのは間違っているように思える。
連絡がつかない中で、複数のスタッフで状況を鑑みた最良の方針を考えるべきなんだろう。
知識の普及
老化に関する知識とアドバンスド・ケア・プランニングに関する知識の普及は難しい。
まず、高齢者医療で悩むのは二次救急病院などで、そうした病院では論文や執筆のためのリソースが限られていることが多いからだ。
論文を執筆することが出世に繋がるのは大学病院勤務ないし医局所属の医師だが、高齢者医療の専門家になり、その知見を積み上げることが特に大学での出世に役立つことにはならない。
つまり、知識をまとめ、作り出し、広める立場にいるべき人が存在しないのだ。
海外の知見をまとめることはできる。
でも、日本のデータはかなり断片的だ。
高齢化に関する問題は非常に大きい。
しかし、当然ながら高齢化研究に製薬会社がお金を出すとは考えづらい。
国家レベルで研究すべき事柄のように思える。
確かに、高齢者医療を専門とする研究所、というのはある。
しかしそれはあくまでアンチエイジングの観点が大きい。
求められているのは陰鬱だが役に立つ科学だ。
ポリコレの時代から真顔の時代に変わる中で、研究機関は作られるべきだろう。