
終末期における看取りと延命治療を主観時間で比較する。
グレッグ・イーガンの小説「順列都市」では、データ化された人々とリアルワールドの人々が話すときに主観時間の概念が発生する。
つまり高性能なコンピューターに意識を移した人はリアルワールドの世界の人と同じくらいの思考速度で会話できるが、低性能な場合、リアルワールドの人が40分に感じる時間の中で、10分くらいの思考しかできないことになるのだ。
この主観時間は鮮烈な印象を残した。
そして、高齢者医療を行っていると、どんな治療を選ぶかで主観時間の差が大いにあると感じるようになった。
別に年を取ると時間の流れが速くなる、というジャネの法則を論じたいわけではない。
もっと単純に、80歳の時間の話をしよう。
彼が肺炎で入院する。肺炎は改善するが、嚥下機能の改善は乏しい。
ここで2つの選択肢を仮定しよう。
1.そのまま自宅に帰る。
2.長期療養型病院に入院し、点滴を受ける。面会時間は1日30分である。(これは幾つかの療養型病院を見ると、そこまで非現実的な面会時間ではない)
まず1だが、家で経口摂取できる範囲のものを食べたら誤嚥と脱水のために一週間程度で亡くなるだろう。
点滴をすれば一時しのぎはできるので、それで2週間後の退院を予定する、ということもできる。
二週間後に家に帰って1-2週間で看取る予定だ、と言われれば会社も配慮はするだろう。
2週間して、それから一週間で亡くなるとわかっていれば家族で介護することも現実的だろう。
そして一週間であれば介護休暇や有休を使うのは現実的な選択肢になる。
その一週間は家族と過ごす濃密な時間である。
主観的な体験として、1日に会話その他のかかわりは8時間程度は生まれるだろう。これが一週間として、56時間のかかわりが生まれる。
一方で、長期療養型病院に転院した場合、一回の面会は30分であり、そのほかの時間は殆どがベッドで天井を見て過ごすことになる。
たいていの長期療養型病院は交通の便が悪いところにある。
なので、仕事をしている家族が面会するとして、週1回30分程度になるだろう。
つまり心の通った時間は週30分になる。
これで56時間のかかわりを得ようと思うと、1月で2時間、2年3か月で56時間になる。点滴だけであれば生きるのは一か月から2か月程度だろうから、主観時間はこの計算だと2-4時間程度になる。
そう考えると、一週間家族に囲まれて最期の時間を過ごすような濃密な時間は、長期療養型病院では絶対に得られないものだとわかる。
主観時間で延命治療の意義を考えると、高額で価値の乏しい医療だという側面が明らかになる。
なぜこんな価値の乏しい医療が行われるかといえば、誤嚥を加齢に伴う運命と考えず、避けるべき過失だと認識しているからだ。
これには大いに裁判所の判例が寄与している。
だからこれを防ぐために、誤嚥を診療する医師は診断書を書かなければならないだろう。