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100歳で寝たきりでも家族が望めば、もしくは決められなければ、心肺蘇生処置を含む生存期間を延長しうる医療処置は全て行う、でいいのか

本人の意志疎通が取れない状態で病院に来て、家族が心配停止時の対応を決められない時は蘇生処置を含めた生命を救うための処置を全力で行います、と話す医師は少なくない。

本人の年齢、ADL、基礎疾患、認知機能、栄養状態は一旦無視される。

決めきれない理由は、医師が中立的な立場で心肺蘇生法について話をするからでもある。

家族への想いが強すぎる場合もある。

医学的な状況からは心肺蘇生処置は無意味だと想像がつく場合は少なくない。

つまり、蘇生の確率は低く、蘇生した場合も殆どは心臓が動くだけで、永続的な脳障害が起こり、意思疎通は取れない場合だ。
また、家族が介護できる範囲を逸脱していることも含もう。

この場合は蘇生しても療養型病院に転院することになる。

家族による本人の意志推定はしばしば難しい。
本人の意志推定ができない場合、現場では家族の意思が尊重されることが多い。

最大の問題は、家族は蘇生後の苦痛を想像することが難しいことだ。

気管挿管、気胸、ドレーン留置、経鼻胃管などの言葉を実感を持って理解するのは患者家族には難しい場合も多い。

少なくともこうした処置をしても家族はその苦痛を以前見たことはない。

医療従事者は通常、認知機能が低下した患者において上述した医療処置が何をもたらすかを想像できる。

また、家族によっては色々な意味で長生きして欲しいと願うことがある。

そこには本人の体験を良くしたい、以外の利害が絡んでいると推定できる場合も多い。
また、現実を理解することを拒むケースもしばしば体験する。
下記の例はその最も極端なものだ。

家族が本人の意志推定が困難な場合に
どのように家族が意思を推定できないと判断するか
どのように医療従事者による意思決定に移行するか

この隙間の制度設計が求められている。

アドバンスドケアプランニング、あるいは人生会議を行うことには意味がある。

ただ、人生会議の前提条件は、本人の意志疎通能力、意思決定能力がある程度保たれていることだ。

また、蘇生や延命の意思決定において、経済的条件が影響を与えていると濃厚に推測されることはしばしばあるが、それがほとんど無視されているのも気になる。

ここに問題がある、というのは多くの人が認識している。

綺麗事では解決できないのではないか?というのはまだ認識が十分ではない。

現場での努力だけでは解決できない事例は制度設計を促す努力が必要だろう。

その一つは、認知症高齢者自身のために医療費も年金も使われるようにして、ATMのように扱われないようにする制度設計だろう。在宅介護は本人のためのお金と家族のためのお金を分離するのは難しい。

一方で、入院後に、病院以外では生きることができないくらい濃厚な医療処置を受け続けて、長生きすればするほど家族(と病院)にお金が入る仕組みがあるなら、それは修正するべきだ。

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