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複雑さそれ自体に対するアプローチ

カルテの書き方の基本に、プロブレムリストがある。

# 誤嚥性肺炎
# 認知症
# 慢性腎臓病
# 心房細動
# 高血圧
# 糖尿病
# 脂質異常症

といった風に、疾患や症状をプロブレムとして捉え、一つ一つに対して考察・介入するというアプローチだ。

これはその患者さんが抱える疾患全体を捉えつつ個別に思考する方法として有用だが、根底に還元主義がある。
つまり、人間の持つ疾患を個別の要素に還元してそれぞれに対して最適な診療を行えば改善していくだろう、という考えがある。

ただ、高齢になってくると疾患が増えて複雑になってくることが多い。

複雑さと国家について考察したのが、
Joseph TainterのThe Collapse of Complex Societiiesだ。
本書は未邦訳だが、ブログでエッセンスが解説されている。

要約すると
人間社会は問題解決のためのシステムである。
複雑な社会は維持のためにエネルギーを必要とする。
単純な問題は簡単に解決できるが、複雑な問題は解決が難しい。
そして最後に残るは複雑な問題となる。
複雑な問題の解決には、複雑な解決策が必要になり、これは社会全体の複雑さを増大させる。この解決による見返りは徐々に小さくなり、複雑さを増大させても問題が解決できないが、複雑さを維持しなければ現状を維持できない状況が生まれる。
ここで別の問題が起きても、それを解決するだけの複雑さを捻出する余力はなく、社会は崩壊する、といった理論だ。
キーワードは複雑さの増大と、収益逓減だ。
最初は社会を複雑にすることで得られる利益が大きいのだが、徐々に複雑さの増大は対した利益を生まない一方で、多くの資源を要求するようになる。最終的には複雑さの増大への投資は赤字となる。

これは医療においても当てはまると感じる。
つまり、患者さんの状態が一定以上に複雑になってしまうと何をやっても良くならないか、良くしようとする処置が単に手間を増やして利益が全くない、といったことが起こる。

一番わかりやすいのはポリファーマシーだ。
薬の種類が増えれば増えるほど、未知の副作用は起こりやすくなる。
そして、基本的には、1剤内服している人が2剤目を内服したときよりも、25剤内服している人が26剤目を内服したときの方が、副作用は起こりやすい。
なぜかといえば1→2と薬が増えても、相互作用が起きる可能性がある薬剤は1種類だが、25→26と薬が増えた場合、少なくとも25種類の薬物相互作用を考えなければならないからだ。
これはもちろんもっとも単純なモデルで、実際はもっと複雑だろうが、目安にはなる。

複雑さは介護においても発生する。
認知症の介護は長生きを目的とした場合、どんどん複雑になっていく傾向がある。
最初はオムツ交換と訪問入浴、清拭、投薬(1日1回)くらいだったものが

褥瘡予防・拘縮予防のリハビリ・オムツ交換・嚥下食の作成・食事介助・口腔ケア・訪問入浴・清拭・投薬(1日4回)・褥瘡処置・不穏に対する頓服、と増えていく。

そして介護の複雑さの増加による利益は徐々に乏しくなる。

基本的にこの複雑なアプローチが善意で徐々に進められていくことも多いように感じる。
そして善意による複雑さの増大に溺れていくこともある。
当然ながら、介護の過程で介護者も年を取るので、複雑さへ対処する機能が衰えていく。

なので、どこかで施設に預けるか、複雑さの増大を諦めるしかない。

それに罪悪感を覚える人もいるのだけど、一定以上複雑になってしまった場合、収益逓減の法則が働くので、より複雑にすることの利益は少ないのだ。

しかしこの複雑さの増大に伴う収益逓減が理解できず、どんどん複雑にしてしまい、毎日遅くまで病院に残って仕事をする医師というのは存在する。
また、実施される医療・看護・介護処置を複雑にしすぎてしまった結果、急性期病院以外では実施できない医療行為を永続することを決めてしまう医師もいる。

これは当然で、医学教育の中に複雑さそれ自体にたいするアプローチは含まれていないし、これ自体を上手く言語化して教えられた記憶もない。

そもそも僕自身が複雑さに対するアプローチとして医学書ではなく未邦訳の歴史書を引用したことからもわかるだろう。

実際には家庭医学・総合診療の一領域では複雑さに対するアプローチを学ぶこともあるのだが、そこに収益逓減という言葉は出てこなかったように思う。落としどころを探る、くらいだったような。

複雑さの増大に伴う収益逓減のほうが状況を端的に要約している。

なぜ複雑さに対する対応を学ばないかといえば、複雑な医療自体が高齢化と高齢化に対して高度な医療を実践することではじめて生まれる産物だからであり、諸外国では高齢者医療は保険上なのか価値観からか、一定以上の複雑さを許可しないもしくは実現が困難な制度設定になっているからだ。

日本は、高齢者医療に対する複雑な介入が可能な保険制度を有している稀有な国にもかかわらず、誰もが片手間に高齢者医療を行っていた結果、この稀有な状況を知識として体系化・洗練させることができず、かといって保険診療や価値観も緩徐にしか変化しない、という状況がある。







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